蒼天の詩〜いつか空の下〜

―エピローグ―

 小さな庭園には、毎朝のように音楽が響いている。
 それは、今では村人達にとってごく当たり前のことだ。わざわざそれを聴くために、顔を出す人もいるほどに。
 立派な診療所兼住宅が建てられ、そこに医師が住むようになっても、それは変わらない日常となっていた。
 この朝も、ティタが少し寝坊した挙句、髪に結ぶリボンを何色にしようかと迷い、大急ぎでそこへやってきたときにはもう、緩やかな曲が流れていた。
 イゼルの笛だけではない。最近ではウィアードも加わって、ヴァイオリンの音もする。
 ティタは、この二人の演奏が世界で一番素敵だと信じている。どちらも透き通った音で、いつもうっとりしてしまう。なにより、従兄同士のこの二人が、お互いに視線をちらりと交わしながらそれぞれの楽器を奏でる様子が、とても幸せそうに見えるのだ。
 花壇の手入れだけでなく、グランダート医師の細々とした仕事の手伝いまでするようになっているティタは、あの四六時中気難しい顔をしている医者が部屋の中で耳を澄ませていることを知っている。
 きみが演奏に混ざるとすぐにわかると、つい先日、嫌味なのか激励なのか慰めなのかわからない言葉を頂戴したばかりだ。
「おはよう、ティタちゃん」
 最初に気付いたウィアードが、にっこり笑いながら弓を持ったままの手を振る。
「今日も可愛いね」
「ありがとう、ウィアードさん。毎日そう言われたら、そばかすだらけの自分の顔を、少しは好きになれそうよ」
 ちょっと口を尖らせたティタは、手提げ籠の中から愛用の笛を取り出す。
「わたし、今日こそはグランダート先生に笑われないように頑張るわ」
「ティタは随分上手になったよ」
「でも、イゼルやウィアードさんに比べたら、子供と大人ほどに違うわ。わたしもいつか、そんなふうに上手になれるかしら?」
 するとイゼルは少し考えるような顔をして、ゆっくり頷いた。
「天奏樹から作られた楽器は、持ち主の心を宿すから。だからきっと、ティタなら大丈夫」
 イゼルが話してくれるその種の話が、ティタには夢物語のように心地好い。
 ティタの想像の中にある天奏樹の枝はしなやかに瑞々しい葉を抱え、幹は雄々しく大地に根ざしている。
 イゼルやウィアードの育った村の人々は皆、その大木をとても大事にしているに違いない。
 そんな木の枝から作り出す楽器は、だから、とても優しい音を出す。
 誰もが心を奪われずにはいられないような。
 ほっと安心して目を閉じたくなるような。
 心の奥がほんわり温かくなるような。
「いつからわたし、天奏樹の大木を見てみたいわ」
「それじゃあティタちゃん、そのうちイゼルと一緒に村に行くといいよ。なあイゼル? お前が花嫁探しをしなくてもティタちゃんが来てくれるってさ」
「ウィアード!」
 白い頬をさっと赤くして、イゼルが珍しく怒ったような声を出す。それを笑顔でかわしたウィアードは、ちっとも悪びれた様子もなく、気取ったように肩を竦めた。
 その間にティタは、少しばかり真剣に考える。
「……わたし、本当に立候補しちゃおうかしら?」
「ええっ?」
 途端に目を剥くイゼルと、一拍置いた後、声をたてて笑いだすウィアード。それを見て、今度はティタが悪びれもせず、にっこり笑う。
「だから、いつか見せてね。イゼルの大好きな場所を、わたしもきっと好きになると思うわ」
 それはきっと、イゼルの奏でる音色と同じように、ウィアードと一緒に織り成す旋律のように、心地好くて安らぎに満ちているに違いない。


 ――空から降る、蒼天の詩。


 もしも一緒に金色の雨の中を過ごすなら、きっと散歩が一番いい。村のいろいろなことを訊ねれば、イゼルは最初に少し考えた後、言葉を選ぶようにして話して聞かせてくれるだろう――嬉しそうな、ほんのり上気した顔で。
 その顔が、きっとときめくほどに綺麗で、そんな顔を見てしまった日には、幸せっていうのはこういうことなんだわ、と意識せずにはいられない。そうに決まっている。
 思わずふふっと笑みを零したティタは、まだ笑っているウィアードと赤い顔のまま難しい表情をしているイゼルを、元気よく促した。
「さあ、練習しなくちゃ」



 流れるような笛の音とそれに重なり合うようなヴァイオリン、そしてときどき調子外れに音が飛び跳ねるたどたどしい音色。
 それは朝陽に満ちた庭をゆっくりと旋回し、空へと舞い上がっていくようだった。


―了―

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本作品の扉 / 創作(オリジナル)

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