―プロローグ―
天上の音楽を奏でる『天奏樹』
天奏樹の葉は子守唄を、
枝は恋人達の囁きを、
幹は大地への賛美を、
そよ風に似た旋律に乗せて
人々に静かなる蒼天の詩を届ける。
天上の音楽を奏でる『天奏樹』が育つ場所、都からずっと離れた小さなその村は、地図にも載っていない。
密やかに、ゆっくりと、そこでは時間が流れるという。
少年は、十五歳になると村を出る。
外の世界を知り、自らの進むべき道を探すために――。
* * * * *
早朝の教会の庭を、ティタは毎日散歩することにしている。十五歳の少女の日課を、友人達はほとんど気味悪がっているのだが、彼女自身はまったく気にしていない。
隣町に大きくて立派な教会が建てられたせいで、七年ほど前から放置されてしまっている村外れの小さな教会は、今は誰も住んでいないし訪れる者もいない。けれど、ティタにとってはとても心が休まる場所なのだった。
ティタは、この教会の牧師が年老いて死んでしまうまで、つまり七年前までは、この教会で育った。今は親切なパン屋の夫婦に引き取られ、彼等を「父さん、母さん」と呼んでいるが、誰も使わなくなったこの教会がただ朽ちていくのが悲しくて、玄関前を掃除したりわずかに残った花壇の世話をしたりしているのである。
この日、ティタが木戸をくぐって敷地内に入ると、いつもの朝と様子が違っていることに気がついた。
何が違うのかというと、それは言葉で表すには少し難しい。
たとえば、木戸に絡み付いている蔦の葉っぱだったり、花壇の草花だったり、そこらに生えている雑草だったり、そして教会の薄汚れた白い壁だったり――とにかく視界に入るすべての色彩が、ティタのよく知る色合いよりも、ほんの少し明るく見えたのだ。萎れたように葉を下げていた草はピンと上を向き、花は朝露を含んで少し誇らしげに見え、いつかは本格的に掃除をしなくてはいけないと思っていた教会の壁の染みも、かすかに薄くなっている。
「神様がわたしの気持ちに応えてくださったのかしら?」
そばかすだらけの顔に笑みを浮かべて、ティタは腕から提げていた籠を振り回した。
「やっぱり捨てたもんじゃないわ、神様って!」
栗色のおさげ髪を肩の上で弾ませながら、目についたものに一通り駆け寄っては、自分の目の錯覚でないことを確認する。
やがてそれが確信に変わる頃、ティタは耳慣れない音に気付いて、足を止めた。
それは、教会の裏庭から聞こえてくるようだ。
「……音楽?」
風のざわめきにも似ているような、聞き覚えのない旋律だった。
何の楽器の何という曲なのか、見当もつかない。ただ、その緩やかに思える旋律が、一瞬で少女の心を掴んだことは間違いのない事実だった。
足音を忍ばせて、教会の壁伝いに裏庭に回る。
そして、そっと壁から顔を出し、繰り広げられている光景を目の当たりにした瞬間、ティタは呼吸をすることさえ忘れて両目を見開いた。
広くはない裏庭の中心に、一人の少女――いや、少年らしい人物が立っていた。
目を伏せて、横笛を吹いている。
聴衆は、小鳥やリスや、近所の野良猫達だった。動物たちは一様に、眠っているように動かないのだ。それだけでも十分に驚くというのに、やはり中でも少年自身の異質さが目を惹いた。
異質という言葉でないとしたら、人間離れしている、という表現になるだろうか。
少女と見紛うほど線の細い彼の身体は、薄い光に包まれていたのだ。
そればかりではない。彼の髪は緑がかった銀髪で、その髪も衣服も、まるで足元から風が吹き上がっているかのように、ゆらゆらとなびいているのである。
注意深く見守るティタは、他にも発見をした。
小さな小さな光の粒が彼の周りを取り巻いて、柔らかい雨のように降り注いでいるのだった。庭の端で立ち枯れそうな老木にも、動物達にも、そして地面にも。
すべてを操っているのが彼の奏でる笛の音色であることを、ティタは悟った。
しかし、不思議なことにその音色は、耳で聞こえるどんな音にもたとえることはできない。耳からではなく全身から感じる、それは不思議な音色だった。
限りなく優しく、柔らかく、そして美しい音色。
強烈な懐かしさや、愛情や、そして何だかわからない悲しみや――そういったものすべてが、緩やかな旋律となって周囲に満ちている。そして小さな光の粒は、少女の栗色の髪や肩にもゆっくりと降りてくるのだった。
ティタは、いつの間にか泣いていた。
視界が歪み、涙が零れ落ちる。
「……わたし、知ってるわ」
思わず呟いた台詞に、ティタ自身が戸惑った。
なぜか知っているような、そんな気がしたのだ。もしかしたら、ずっと昔から。
気がつくと、堪らない気分に襲われて、ティタは壁の影から裏庭に飛び出していた。
「――ねえ、君」
その瞬間、周囲から柔らかな気配が消える。
少年は突然現われたティタに心底驚いたらしく、横笛を取り落としそうになり、それを慌てて持ち直すと、決まり悪い顔をした。
少年の足元から漂っていたような風は止み、そして少年の髪の色が、緑がかった銀髪から薄茶色に転じ、やがて琥珀色へと落ち着く。
あんぐり口を開けてそれを見つめるばかりのティタは、天使が人間に変化する様を目撃した唯一の人間がいるとしたら、それは自分のことだと思った。
「……人がいるとは思わなかった」
少年が、まるで怒ったように言う。瞳は、透き通るような水色だった。
ティタは、混乱した頭の中で落ち着くように自分を叱咤して、声を出した。
「この教会を、綺麗にしてくれたのは、君の力なの?」
「呼ばれたから」
さも当たり前のことのように、少年は答える。
「えと……あの、わたし、ティタっていうの。君……名前、ある?」
普通の人間なら名前があるのは当然なのだが、この時点でティタはまだ、少年の正体が人間なのか天使なのか判断できなかったのだ。
彼は、勝手にうろたえているティタを一瞥し、横笛を腰に挿すと、そのままくるりと背を向けた。
「ね、ねえ、怒ってるの? わたしが邪魔したから……それで怒ってるの?」
「……イゼル」
「えっ?」
「名前。――僕の」
ぶつ切れの単語を残して、少年はひょいと柵を飛び越えると、そのままどこへともなく姿を消した。
動物達も、いつの間にか姿を消している。
「……なんだったの……?」
独り取り残されたティタは、呆然と周囲を見渡した。
いつもと変わらない風景。
土臭くて、老木が佇む裏庭。
ただし、奇跡は間違いなく起こっていた。
朽ちかけた枝に垂れ下がるだけだった葉が艶やかな緑色を取り戻し、老木はティタが記憶する中で最も生命力に溢れていたのだ。
そして、もうひとつ。
少女の心にも、変化が起きていた。
――ほんの一瞬で、彼女は恋に落ちたのだ。
天上の音楽を奏でる『天奏樹』
天奏樹の葉は子守唄を、
枝は恋人達の囁きを、
幹は大地への賛美を、
そよ風に似た旋律に乗せて
人々に静かなる蒼天の詩を届ける。
天上の音楽を奏でる『天奏樹』が育つ場所、都からずっと離れた小さなその村は、地図にも載っていない。
密やかに、ゆっくりと、そこでは時間が流れるという。
少年は、十五歳になると村を出る。
外の世界を知り、自らの進むべき道を探すために――。
* * * * *
早朝の教会の庭を、ティタは毎日散歩することにしている。十五歳の少女の日課を、友人達はほとんど気味悪がっているのだが、彼女自身はまったく気にしていない。
隣町に大きくて立派な教会が建てられたせいで、七年ほど前から放置されてしまっている村外れの小さな教会は、今は誰も住んでいないし訪れる者もいない。けれど、ティタにとってはとても心が休まる場所なのだった。
ティタは、この教会の牧師が年老いて死んでしまうまで、つまり七年前までは、この教会で育った。今は親切なパン屋の夫婦に引き取られ、彼等を「父さん、母さん」と呼んでいるが、誰も使わなくなったこの教会がただ朽ちていくのが悲しくて、玄関前を掃除したりわずかに残った花壇の世話をしたりしているのである。
この日、ティタが木戸をくぐって敷地内に入ると、いつもの朝と様子が違っていることに気がついた。
何が違うのかというと、それは言葉で表すには少し難しい。
たとえば、木戸に絡み付いている蔦の葉っぱだったり、花壇の草花だったり、そこらに生えている雑草だったり、そして教会の薄汚れた白い壁だったり――とにかく視界に入るすべての色彩が、ティタのよく知る色合いよりも、ほんの少し明るく見えたのだ。萎れたように葉を下げていた草はピンと上を向き、花は朝露を含んで少し誇らしげに見え、いつかは本格的に掃除をしなくてはいけないと思っていた教会の壁の染みも、かすかに薄くなっている。
「神様がわたしの気持ちに応えてくださったのかしら?」
そばかすだらけの顔に笑みを浮かべて、ティタは腕から提げていた籠を振り回した。
「やっぱり捨てたもんじゃないわ、神様って!」
栗色のおさげ髪を肩の上で弾ませながら、目についたものに一通り駆け寄っては、自分の目の錯覚でないことを確認する。
やがてそれが確信に変わる頃、ティタは耳慣れない音に気付いて、足を止めた。
それは、教会の裏庭から聞こえてくるようだ。
「……音楽?」
風のざわめきにも似ているような、聞き覚えのない旋律だった。
何の楽器の何という曲なのか、見当もつかない。ただ、その緩やかに思える旋律が、一瞬で少女の心を掴んだことは間違いのない事実だった。
足音を忍ばせて、教会の壁伝いに裏庭に回る。
そして、そっと壁から顔を出し、繰り広げられている光景を目の当たりにした瞬間、ティタは呼吸をすることさえ忘れて両目を見開いた。
広くはない裏庭の中心に、一人の少女――いや、少年らしい人物が立っていた。
目を伏せて、横笛を吹いている。
聴衆は、小鳥やリスや、近所の野良猫達だった。動物たちは一様に、眠っているように動かないのだ。それだけでも十分に驚くというのに、やはり中でも少年自身の異質さが目を惹いた。
異質という言葉でないとしたら、人間離れしている、という表現になるだろうか。
少女と見紛うほど線の細い彼の身体は、薄い光に包まれていたのだ。
そればかりではない。彼の髪は緑がかった銀髪で、その髪も衣服も、まるで足元から風が吹き上がっているかのように、ゆらゆらとなびいているのである。
注意深く見守るティタは、他にも発見をした。
小さな小さな光の粒が彼の周りを取り巻いて、柔らかい雨のように降り注いでいるのだった。庭の端で立ち枯れそうな老木にも、動物達にも、そして地面にも。
すべてを操っているのが彼の奏でる笛の音色であることを、ティタは悟った。
しかし、不思議なことにその音色は、耳で聞こえるどんな音にもたとえることはできない。耳からではなく全身から感じる、それは不思議な音色だった。
限りなく優しく、柔らかく、そして美しい音色。
強烈な懐かしさや、愛情や、そして何だかわからない悲しみや――そういったものすべてが、緩やかな旋律となって周囲に満ちている。そして小さな光の粒は、少女の栗色の髪や肩にもゆっくりと降りてくるのだった。
ティタは、いつの間にか泣いていた。
視界が歪み、涙が零れ落ちる。
「……わたし、知ってるわ」
思わず呟いた台詞に、ティタ自身が戸惑った。
なぜか知っているような、そんな気がしたのだ。もしかしたら、ずっと昔から。
気がつくと、堪らない気分に襲われて、ティタは壁の影から裏庭に飛び出していた。
「――ねえ、君」
その瞬間、周囲から柔らかな気配が消える。
少年は突然現われたティタに心底驚いたらしく、横笛を取り落としそうになり、それを慌てて持ち直すと、決まり悪い顔をした。
少年の足元から漂っていたような風は止み、そして少年の髪の色が、緑がかった銀髪から薄茶色に転じ、やがて琥珀色へと落ち着く。
あんぐり口を開けてそれを見つめるばかりのティタは、天使が人間に変化する様を目撃した唯一の人間がいるとしたら、それは自分のことだと思った。
「……人がいるとは思わなかった」
少年が、まるで怒ったように言う。瞳は、透き通るような水色だった。
ティタは、混乱した頭の中で落ち着くように自分を叱咤して、声を出した。
「この教会を、綺麗にしてくれたのは、君の力なの?」
「呼ばれたから」
さも当たり前のことのように、少年は答える。
「えと……あの、わたし、ティタっていうの。君……名前、ある?」
普通の人間なら名前があるのは当然なのだが、この時点でティタはまだ、少年の正体が人間なのか天使なのか判断できなかったのだ。
彼は、勝手にうろたえているティタを一瞥し、横笛を腰に挿すと、そのままくるりと背を向けた。
「ね、ねえ、怒ってるの? わたしが邪魔したから……それで怒ってるの?」
「……イゼル」
「えっ?」
「名前。――僕の」
ぶつ切れの単語を残して、少年はひょいと柵を飛び越えると、そのままどこへともなく姿を消した。
動物達も、いつの間にか姿を消している。
「……なんだったの……?」
独り取り残されたティタは、呆然と周囲を見渡した。
いつもと変わらない風景。
土臭くて、老木が佇む裏庭。
ただし、奇跡は間違いなく起こっていた。
朽ちかけた枝に垂れ下がるだけだった葉が艶やかな緑色を取り戻し、老木はティタが記憶する中で最も生命力に溢れていたのだ。
そして、もうひとつ。
少女の心にも、変化が起きていた。
――ほんの一瞬で、彼女は恋に落ちたのだ。