遥かなる幸福の都
<番外編・空のむこう>
 虹の橋を歩くことが出来れば、空へ行くことができると――そう信じた若者がいました。
 空の世界は太陽や雲や月や星に彩られ、とても美しくて楽しい世界に違いないと、若者は思ったのです。彼は、とても貧しい家に生まれ育ち、友達も少なく、毎日をつまらないと感じていたので、綺麗な空の世界にとても憧れたのでした。空には苦しいことなんてひとつもないと、そう信じたのです。
 虹の上を歩くには、まず虹に登らなくてはいけません。そこで若者は、雨上がりを待って、虹の根元を探す旅に出発しました。
 虹が見えるのは、遠い空の下。消えてしまう前に、その根元に辿り着かなくてはなりません。
 若者は急ぎました。とても急ぎました。
 けれど、若者が虹の根元だと思った場所には、ただの村がありました。若者が育った場所よりも、ずっと貧しい村です。
 若者は、ひどく残念がりました。そうしてまた、虹を探す旅に出たのです。
 何度も何度も虹を見つけては、若者はその根元を目指しました。でも虹は、若者が近づくとすうっと消えてしまうか、もっと遠くに逃げてしまうのでした。
 若者は、いつの間にか虹を探すのを諦めました。
 そして、空を嫌いになりました。太陽も月も星も、全部嫌いになりました。
 そうして、旅をやめました。
 七色の虹は確かに見えるのに――虹の生まれる場所は、誰にもわからないものだから。
 手に入らないから。
 若者は、いつしか青い空を見上げることさえ忘れてしまったのです。
 青い青い空の上に、本当は何があるのか知らないままで。



 雨上がりの市場を歩きながら、ファルドはルカートを見上げた。
「それで……その若者はどうなっちゃったの?」
「ファルド君はどう思う?」
 逆に問い掛けられて、ファルドはううん、と唸る。
 ルカートの聞かせてくれるお話は、時々とても難しい。それなのに、こういうお話をするときのルカートは、決まって答えを教えてくれなかったりするのだ。
「このお話には、ちゃんとした終わりがないんだ。考え方によっては、救いようのないお話っていうことでもあるんだけどね」
 にこりと笑って、ルカートは空を仰ぐ。
 真似をして見上げてみるファルドだが、見えたのは雨期にしては珍しい、透き通るような青空だった。
 市場に視線を戻してみると、屋台の屋根に引っかかっている雨粒や、地面の水溜りが目に飛び込んでくる。忙しなく人の行き交う通りでは、人々はそんなものには目もくれない。そして、ほとんど注目されない市場のあちこちが、きらきらと輝いている。
 特に水溜りは、せっかく空を映しても、誰かに踏みつけられたり荷車に轢かれたりすると、簡単に泥色に変わってしまう。そしてまたしばらくすると、周囲の喧騒など素知らぬ顔で空を映し続けるのだ。
 ファルドは、だから水溜りをなるべく踏まないように、時には飛び跳ねるようにして歩いた。
「あとは、金物屋さんに寄るだけだったよね?」
「うん。金物屋さんはね……ええと、こっちの道から行くのが近いんだ」
「もうすっかりこの市場に慣れちゃったんだね。僕よりずっと、裏道にも詳しいし」
 感心されて、えへへ、とファルドは得意顔になる。街の造りや道順を覚えるのは、大好きなことのひとつなのだ。
 お手伝いに付き合うと言ってついてきたルカートは、野菜や棒石鹸の入った籠を抱えつつ、ファルドの歩幅に合わせて、ゆったりとした足取りで隣を歩いている。こういう光景が世間の常識とは逆だということを、とファルドは知っていた。
 なぜなら、本来なら荷物を運ぶのは奴隷の仕事で、大きな家に住むお金持ちの人が、こんなふうに気軽に市場を歩くなど見たことがないからだ。
 そういう意味では、ルカートは少し変わっていると思う。何かを命令することもないし、威張り散らすこともない――すぐに悪戯を仕掛けてくることを除けば、いつの間にかラティフィーネの次に心を許せる相手になっていたりもする。
 心の中に二つも拠り所があるということは、心地好さと安心感を生む。だから、ファルドは毎日が楽しいのだ。
 ところが、次に降って来たルカートの声に、少年の心を包むほんわりとした気分は一転した。
「そうだ、ファルド君。忘れるところだったけれど、実は今日もお土産があるんだよ」
 さも嬉しそうにこういうことを言うルカートは、大抵の場合が信用ならない。
「胡桃に甘い蜜を絡めて固めたお菓子なんだけどね」
「……また、何か違うものを混ぜてるとか言うんでしょ?」
「嫌だなあ、そんなに警戒しながら食べたら美味しくないよ?」
 悪戯常習犯はにっこり笑うが、この笑みこそが要注意なのだと、さすがにファルドは学習している。
 そしてルカートは、更に怖いことを口走るのだった。
「だってねえ、ファルド君に意地悪するのは僕の特権みたいなものだし。君の怒った顔が、これまた僕の心をくすぐるんだよね」
「僕、そういうのをなんて言うか知ってるよ」
 数歩分――ルカートの腕が届かない間合いを取りながら、ファルドは人差し指を突きつけて言い放った。
「ヘンタイだって、ラティが言ってた!」
 これでも、ファルドなりの精一杯の牽制である。
 しかし、それはまったくの逆効果だった。ルカートは遠慮なく吹き出し、身体を折り曲げるようにして笑い始めたのだ。
「……きみって……本当に可愛いね……っ」
「僕、意地悪するルカートは嫌い!」
「傷つくなあ。これでも僕の愛情表現なんだけど」
 まだ笑っているルカートは、まともに話すのも苦しそうなくせに、性懲りも無くそんなことを言う。
「面白がってるだけでしょ!」
 ファルドは頬を膨らまして言い残すと、背を向けて歩き出した。そうすると、ルカートは当然のように、いとも簡単に追いついて来てしまうのだったが。
「ねえファルド君、さっきのお話だけどね」
「……空に行きたかった若者のお話?」
 振り返ってしまったファルドは、つい訊き返した後で、しまったと思った。いつものこととはいえ、すぐにルカートの調子に乗せられてしまうのだ。
 そのルカートというと、にっこり笑いながら、荷物を抱えていない方の手で器用にお菓子の包み紙を広げる。
「あのお話、幸福の都とよく似ていると思わないかい? だってほら、虹の根元を求める若者と、幸福の都を探しているきみ達と、なんとなく似ているだろう? まあ……その若者や僕なんかとは違って、きみが空を嫌いになるなんてことは、ないのかもしれないけれど」
「ルカートは、空を嫌いになったの?」
「少し前までは大嫌いだったよ。でも、今はちょっと違うな。……また、好きになれそうな気がするから」
 ふーん、と頷いて、ファルドは胡桃色をした欠片をひとつ口の中に放り込んだ。
 なんだかんだと言いつつも、ルカートの持って来るお菓子は美味しい。甘さが口いっぱいに広がって、それまで怒っていたことなどすっかり忘れてしまうのだった。
「でも、今日の僕はちょっと困っているんだよね。ラティフィーネは僕のことを怒っているんじゃないかと思うし」
「どうして? ラティと喧嘩したの?」
「そういうわけでもないんだけれど」
 肩を竦めて、ルカートは笑う。
 ファルドは、そういえばラティフィーネも、喧嘩をしたわけじゃないとは言いながら、ルカートのことを口に出すと不機嫌に拍車がかかることを思い出した。
 数日前の雨の午後、ファルドは宿の主人について堤防の見回りに行っていたからよく知らないが、その間にルカートが来ていたらしく、そこで何かあったのかもしれない。
「ルカートは、ラティともっと仲良しになりたいの?」
「できることならば」
「でも……じゃあ、あの女の人は? ええと……婚約者、とかいう人」
 少しだけ躊躇ってから、ファルドは質問をぶつけてみた。
 ルカートは別段困ったふうでもなく、片腕で支えている籠を抱え直す。
「ファルド君は知らなかったかもしれないけど、エルミナとは、もうそういう関係じゃあなくなったんだよ。つまり、今はそんなに仲良くないっていうこと」
「どうして?」
「……どうして、と言われても……まあ、悪いのは僕なんだけど」
 ここで初めて、ルカートは少々歯切れ悪くなる。
「僕はさ……本当を言うと、今まで女の人を本気で好きになれなかったんだよね。……なんて、こんなことを君に白状しても仕方のないことだけれど」
「……じゃあ、男の人だったら、好きになれたの?」
 ファルドにとってそれは、とても単純かつ真面目な疑問だ。
 しかし、ルカートは一瞬驚いたような顔をした後、にっこり笑いながら、ファルドの鼻を指先で摘みあげた。
「残念ながら、そういう意味じゃないんだよねえ、これが」
「い、いひゃい」
「ファルド君の鼻は柔らかいんだねえ、僕、いいことを知ってしまったよ」
 意地悪く言ってから、ルカートはやっと手を離す。
 ファルドは涙目で飛び退いて、引っ張られた鼻だけでなく顔全体を両手で挟みながら、危険極まりない青年に抗議した。
「だって、変だよ。僕はラティのことも大好きだけど、ルカートのことも好きだもの。好きになったことがないなんて、よくわかんない」
「ファルド君は、僕のことも好きなの?」
「意地悪するのは嫌い!」
 力いっぱい断言したものの、ファルドの反撃などルカートにはまったく堪えていない。
「ファルド君はいい子だねえ」
「嬉しくないもん」
 ふいと横を向いて、ファルドは気を悪くしたことを強調する。
「でも、僕なんかより――ラティフィーネのことよりもずっと大好きになる人が現れたら、きみはどうするんだろう」
「……そんな人、いないもん」
「何年か先の話さ。きみにもいつかそういう人が現れる……て、その目は疑っているみたいだけど、これはきっと本当だよ。僕は本来いい加減な性質ではあるけれど、基本的に嘘は吐かない」
 自慢だか何かわからないことを口にして、今度はルカートが先に歩き出してしまった。
 ファルドから見て、ルカートが大人に思えるのはこういうときだ。背もずっと高くて、足も長くて、時折、ファルドの知らない「本当のこと」の話をする。それが、ラティフィーネとは違う種類の「占い」みたいで、なんだかすごいことのように思えるのだった。
「ファルド君、行こう?」
 上半身を捻って、ルカートが手招きする。
 しばし考え込んだファルドは、笑顔でそれに応じることにした。
「ねえルカート、僕ね、今、考えたんだ」
「うん?」
「さっきの、空のお話……僕だったら、どうするかなあって」
 ルカートの腕を掴むようにして、ファルドは自分の思いつきを説明する。
「僕だったら、友達をたくさんつくるよ。皆を大好きになって、僕のことも好きになってもらうんだ。そうしたら、きっと寂しくないでしょう? きっと毎日が楽しくなって、そうしたら、空のほうが良いなんて思わなくなる。それでね、いつか僕の住む場所に虹が出たら、皆で渡るんだ。空の上が綺麗な所でも、もしも怖い所でも、大好きな人達と一緒だったら、僕、きっと楽しいんじゃないかと思うよ。……僕の一番大事な人はまだわからないけど、その人も一緒だったら、もっと楽しくなると思う」
「それが――きみの答えなんだね」
 ファルドには、そう呟くルカートの顔が、いつもよりも優しい感じに見えた。
「まったく、きみらしいよ。ラティフィーネは……いつ、虹の場所に気づくんだろう」
「ラティは、僕が連れて行くから大丈夫!」
「ついででいいから、僕も忘れないでおくれよね」
 優しい顔のまま、ルカートはちゃっかりとそんなことを言う。そして、ファルドの頭をくしゃくしゃに掻き回して、歩き始めようとした――その瞬間。
「えいっ!」
 ファルドは素早く、かつ狙いを定めて、ルカートの軸足を膝裏から前方に蹴飛ばした。つまり、身体を支えている方の膝を、後ろから折ってやったのだ。
「うわっ!?」
 どうなるかというと――踏み出そうとした途端に支えを失ったルカートは、当然ながら一瞬にして均衡を失い、その場に崩れそうになるのを慌てて踏み止まるという、間抜けな体勢に陥る。おまけに、不意を突かれた予想もしない攻撃に、精神的にも痛手を被るという効果つきだ。
「ファ……ファルド君……どこで覚えたのかな? ……こんなこと」
「ここに来る前の街で仲良くなった友達っ」
 意地悪をするときのルカートさながら、にっこり笑顔で応じつつ、ファルドは全速力で十数歩分を逃げる。
「きみにこんな隠し技があるなんて……僕もまだまだ甘いよね」
「そうだっ。ラティは、お花が好きだよ! 花束をあげたら、きっと喜んでくれるんじゃないかな? あっちにお花の屋台が出ているはずだから、見てくるね!」
 笑いを堪えているようなルカートにそう告げて、ファルドは元気良く駆け出した。
 途中、ちらりと空を見上げる。
 青い空と、雲の切れ間から覗く太陽が眩しい。けれど、それを焦がれたりする気持ちは、ファルドには湧いてこなかった。
 でもいつか、虹を見つけたらラティに教えてあげようと、こっそり胸に誓う。


 ――ファルドとルカートが花屋に長いこと居座った結果、かなり個性的な組み合わせの花束を完成させてしてしまうのは、この後の出来事である。





  ■旧サイトでの、キリ番15000リクエスト小説でした。リクエストは、「いつもやられているばかりのファルドが、ルカートに仕返しできるか?」ということで、膝カックン。

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