遥かなる幸福の都
<第六章>
 あと十日もすれば、都に雨期が訪れる。
 この雨期が終われば、都は最も華やかな季節を迎えるのだ。都の外れを流れる運河は水量を増し、そこには積荷を乗せた船が押し寄せる。市場は活気づき、人々は浮き足立ち、この「幸福の都」を称える盛大な祭りが行われるのだった。女達は雨期の間にレースを編み、できあがった新しいショールで、祭りに華を添えることになっている。
 ラティフィーネのもとには、どんな模様のレース編みがいいか占いで決めようという若い娘達が群がっている。きゃあきゃあとはしゃぎながら、彼女達は無愛想な占師を質問攻めにしているようだった。
「これじゃあ……ラティフィーネもうんざりだろうね」
 店内の離れた場所から様子を眺めつつ、ルカートは呟いた。表面上、彼は笑顔を浮かべてはいるが、指先は一定の間隔を保ちながらテーブルの端を弾いている。
 実のところルカートは、虫の居所が悪かった。
 原因は、微妙に湿気を孕んだ空気と、そんなものはものともしない少女達の歓声と、それから、先ほどから熱心に自分を説得しようとするファルドの発言にある。
「ねえ僕の言うこと、聞いてくれてる?」
 不審そうな幼い声には、少々の呆れも混ざっている。
 真っ直ぐ自分に向けられる視線から逃げるために、ルカートは殊更ゆっくりと椅子から立ち上がった。ファルドの身体をやんわりと遠ざけて、代わりに賑やかな集団に歩み寄る。
「楽しそうだね、お嬢さん方は」
 にっこりと笑みを振り撒けば、少女達は途端におしゃべりを止め、頬を朱に染めていく。
「あんまり楽しそうだと、思わず仲間に入れて欲しくなるよ」
「あら、男の人は駄目だわ」
 本音とは裏腹な台詞を吐くルカートに、一人の少女が悪戯っぽく肩を竦めた。少しばかり上向きの鼻が、勝気そうな印象を与える少女である。
「年に一度、女の子達が一番綺麗になる日のためだもの」
 別の少女が続けて言い、少女達は肩を震わせ、互いの顔を見合わせながら笑う。
「おや残念。じゃあ僕は、おとなしく待つことにするよ。きみ達の手を取ってダンスを踊る若者達が、僕は羨ましい」
「もしかして、意中のお相手はいらっしゃらないの?」
「僕は、報われない恋の殉教者だからね。これからこの占師に、儚い恋の行方を尋ねるところさ」
 ルカートの少々芝居がかかった言い回しに、少女達は瞳を輝かせて囁き合い、やがて押し出された一人の少女が、耳まで赤く染めながら問い掛ける。
「じゃあ、わたし達のうちの誰かと踊ってくださることも……?」
「きみ達のうちの誰かが、僕に救いの光を与えてくれるのなら――喜んで」
 優雅に微笑んだルカートは、貴族の青年がそうするように、胸に片手を添えてゆったりと一礼してみせた。
「ごきげんよう、お嬢さん方。祭りの日を楽しみにしているよ」
 少女達は、恍惚と歓喜の混ざったような声を漏らし、それから申し合わせたように淑女のようなおじぎを返し、はしゃぎながら店を出ていった。
 それを見送ってから、ルカートは初めてラティフィーネの顔を覗き込む。
「どう? うまく追い払ったと思わないかい?」
「……追い払ってくれたことには感謝するけど、その軽薄さには呆れるわ」
 にこりともせずに、ラティフィーネは応じる。
 ルカートは気にせず、テーブルに手をつきながら身を乗り出した。
「聞いていなかったのかい? 僕は恋の病に冒されているんだ。救い出してくれるのは、きみだと信じたいんだけど?」
 ルカートが笑みを浮かべると、珍しく、ラティフィーネの薄い蒼色の双眸がじっと見つめ返してきた。
「なんだい? きみにそんなふうに見つめられると、僕は本気にしてしまいそうだ」
「今日は機嫌が悪いみたいね」
 ふいと視線を逸らして、ラティフィーネは単調に告げる。
「そういう悪ふざけは、八つ当たりみたいだわ」
「……これは、さすが占師だね」
 ルカートは、素直に驚いてみせた。両手を胸の高さまで持ち上げて、苦笑する。
 こういうことを無表情でずばりと言い当てるラティフィーネを、ルカートは実際のところ気に入っている。客観的に見ても美人の部類に入るだろう彼女が、一切他人に媚びることなく、むしろ他人が深く立ち入ることを拒んでいるようなところは、どこか自虐的ですらあって、それでいて潔かった。
「でも、きみは笑ったほうがもっと美人に見えると思うよ。これは悪ふざけじゃなく、ね」
「ご忠告ありがとう。あなたは口を慎んだほうが好青年に見えると思うわ」
 取りつく島もなく、ラティフィーネは言い放つ。
「きみって本当につれないね」
「もう、ルカートってば!」
 ルカートが肩を竦めたとき、先ほどからずっと無視されていたファルドが、ついに強硬手段に出た。
「僕の言うこと、どうしてちゃんと聞いてくれないのっ?」
 怒鳴り声と呼ぶにはやや迫力に欠けた大声と同時に、ルカートは軽く突き飛ばされて、そばの椅子に尻餅をつく。
「……っとと。意外と乱暴だなあ、ファルド君は」
「だって、さっきからずっと話してるのに、ちっとも僕の言うことを聞いてくれないじゃない!」
「嫌だって答えたじゃないか、最初に」
「だから、どうして嫌なの?」
「嫌だから嫌だ。これ以上簡潔な説明はできないね」
 ルカートは素っ気なく応じて、ちらりとラティフィーネの様子をうかがう。ファルド絡みのことならば必ず何かしら口を出すと思っていたのだが、どうやら無関心に徹しているらしく、こちらを見向きもしない。
「ちょっとだけ、一緒に来てくれるだけでいいんだよ? そうして、少し話をしてくれたら、きっとおばさんは喜んでくれるんだ」
 ファルドは、しつこく説得を繰り返そうとしている。その言い分が純粋な優しさからのものであればあるほど、ルカートを追い詰めるとも知らずに。
「おばさんには、ずっと昔に離れ離れになった息子がいるんだって。それが、ちょうどルカートと同じくらいの歳で、この間は少し驚いたんだって。でも……ルカートがさっさと帰っちゃうから。おばさん、気にしているんだ。だからもう一回だけ、おばさんの所へ行こうよ。そうしたら、おばさんは安心してくれると思うんだ」
「……僕に息子の代わりをやれって言うのかい?」
 ルカートの発した声は、自分で意識したよりも低かった。
「代わりじゃないよ。ただ、おばさんが喜ぶと思うから。ルカートだって、おばさんが喜んでくれたら、きっと嬉しいでしょう?」
「僕には、売春婦を喜ばせる趣味はないよ」
「――え?」
 その意味がわからなかったらしく、ファルドは眉をひそめる。
 思わず口に出した台詞が十一歳の少年に向けるには相応しくないと気づいて、さすがにルカートは言い方を改めた。
「……おばさんは、今は洗濯屋かもしれないけれど、昔はもっと大変な仕事をしていただろうってことさ。そして僕は、そういう仕事をしていた女の人を好きじゃない」
「おばさんのこと、嫌いなの?」
「あのおばさんを好きとか嫌いとか、そういうことじゃないんだよ」
「じゃあ、どうして――」
「あのね、ファルド君」
 ――酷く、苛々する。
 押さえ込んでいた激情が一気に渦を巻き、逆流を始めたかのように。そして否応なく、「代替品」として育てられた自分自身を思い知らされる。
 らしくもなく、ルカートは強い口調で言い放った。
「偽者は偽者だよ。僕がいくら息子みたいに優しい言葉をかけたって、おばさんは喜ばない。本物の息子を想い出して、おばさんは虚しくなるに違いないさ。僕だって、そんな役回りはごめんだね。はっきり言って、いい迷惑だ」
「ルカートの意地悪っ!」
 怒ったように、ファルドが詰る。
 直後、ルカートはテーブルに掌を叩きつけていた。
 バンッ、と鈍い、しかし大きな音が響き、ファルドは驚いたように大きな目を見開いて、半歩後ずさる。
「前の戦争の最中、この国にどれだけの奴隷がいたと思う?」
 叩きつけた掌を握り締め、ルカートは深い溜息をついた。
「その奴隷の中で……どれだけの女の人が、望みもしない子供を産んだと思う? しかも、金のために、だ」
「……ルカート……?」
「子供なら親に会いたいとか、親なら子供を捨てないとか、そんなのは幸福な世界の幻想さ。まあ……狂った世界に産まれた僕に、本当の幸福なんてわからないけどね。でも、あのおばさんみたいな女の人や、金で売られた子供は、この都にも大勢いる」
 完全に、吐き出す言葉を自制できなくなっている。ルカートは、そんな自分を心の底から軽蔑した。
「……きみに、こんなことを言うなんて……僕はどうかしているね。でも……ここが幸福の都なんかじゃないっていう、それが証拠だよ」
「……え、と……僕……」
 怯えるよりも動揺の色が濃いファルドは、それでもゆっくりと手を伸ばす。
「ごめんなさい……僕、もう言わないから……ルカートが嫌なこと、もう、言わないから……。だから……そんな悲しい顔、しないで」
 戸惑いがちなファルドの指先は、俯いたルカートの金髪を撫で、頬に触れる。
「僕って……大人気ないね」
 この苛立ちの正体が、わからない。
 胸の奥に何かがつかえて、それがじりじりと焦げるように熱い。それなのに、誰かの思い遣りに触れると泡のように溶けて、そこには深く突き刺さった棘だけが残る。
「――ごめんよ、ファルド君」
 呟いて、ルカートは立ち上がった。そのまま店を出る。
 悔しかった。
 らしくもない自分が、まるで昔そのままの子供のようで。
 まったくもって、こんなことはらしくない。
「しっかりしろ……!」
 自分自身を叱責して、ルカートは空を睨んだ。



「……あの男が余裕をなくすなんて、珍しいことだわね」
 ルカートが店を出ていってから初めて、ラティフィーネは席を立った。
 なす術もなく立ち尽くしているファルドは、今にも泣き出しそうな顔で振り返る。
「ラティ……僕、どうしよう……。僕、おばさんを喜ばせたかっただけなんだ……なのに。……僕、酷いこと言っちゃったのかな……?」
「べつに、あんたは悪くないわ」
 ファルドの頭を引き寄せて、ラティフィーネは吐息した。
「ただ……彼のことを知らなかっただけよ。ルカートって人がどういうものを抱えているか、知らなかっただけだわ」
「……ルカートの、『いろいろ』のこと?」
 ラティフィーネは頷いて、ファルドの黒髪を撫でた。
「とても、難しいことだけど……誰かのために一生懸命にしようとしたことが、別の誰かを傷つけてしまうこともあるのよ。だからって、あんたが悪いわけじゃないわ。ルカートも、あんたを苛めようとしたわけでもない。だた……ちょっと噛み合わなかったのよ」
「……うん」
 ファルドは、ラティフィーネの胸に顔を押しつける。そうして、小さな身体は耐えているのだった。
 もどかしさと、困惑と、それから痛みに。
「ねえラティ、みんなが一緒に幸せになれる方法はないの?」
 やがて、ファルドは顔を上げた。
 大きな灰褐色の瞳はどこまでも純真で、そして真剣だった。
「……わからないわ」
 ラティフィーネは首を振る。
「そんなこと、誰にもわからないのよ。だから、皆探しているんだわ……幸福の都を」
 そんなものは幻想だと、誰もが信じながら、焦がれてやまない世界――ラティフィーネも、そうだ。
 ラティフィーネは、ルカートの先ほどの言い分をすべて弁護するつもりはない。彼の日頃の言動を丸ごと支持するつもりもないし、彼の内面の葛藤を理解した気になるつもりもない。しかし、彼の言っていることが間違いであると、切り捨てることもできなかった。
「ルカートは……また、ここに来てくれるかな? 僕、ルカートに嫌われたりしないかな?」
 それは、いかにもファルドらしい心配だった。
「大丈夫よ。あの人、あんたを嫌うほどには馬鹿じゃないわ」
「う……うん……?」
 褒めているのか貶しているのかわからないような言い種に混乱しているファルドから離れて、ラティフィーネはテーブルに戻った。
 水鏡を、そっと覗き込む。
 不機嫌な自分の顔があった。
「あのぉ、占いをしてくれるのって、ここのお店ですか?」
 店の入り口から、数人の少女達の顔が覗く。おそらく、占いの内容は先客と似たようなものだろう。
「どうぞ」
 無愛想に、ラティフィーネは告げる。
 ほどなくして、周囲は少女達の弾ける笑い声で満たされた。


* * * * *


 都に雨期が訪れた。
 およそひと月程度、ほとんど雨ばかりの日が続く。ラティフィーネとファルドがこの都へ辿り着いて、ふた月が経とうとしていた。
 ――今日も、雨だ。
 優しい雨が降り続ける外を眺めながら、ラティフィーネは頬杖をつく。客がほとんど来ない日も、彼女は一日中、宿屋の食堂の一角に腰を据えていた。
 他にすることもないから、ということもあるが、こうしてぼんやりとしながら過ごす緩やかな時間を、ラティフィーネは気に入っている。
 そしてラティフィーネは、そろそろこの都を離れることを考え始めていた。
 この雨期が明けたら潮時かもしれない――と。
 この都の住み心地は、決して悪くない。宿を切り盛りする夫婦は二人を歓迎してくれているし、晴れてさえいれば、占いの商売もそれなりに繁盛している。ただ一方で、次の大きな都へ辿り着くくらいの貯金はできたという事実もあった。そして旅費が稼げたのなら、同時に、この都に留まる最大の理由もなくなってしまう。
 けれども、まだその考えを口に出してはいなかった。
 ちょうど五日前、ファルドにとってとても悲しい事件が起きてしまったのだ。
 ――ウルカが、死んだのである。
 患っていた胸の病が、雨期に入って悪化した結果だった。
 最期を看取ったのはファルドと、洗濯屋で働く数人の女性だったという。
 心から慕っていた人の死に泣きじゃくり、嗚咽も嗄れるほど涙を流したファルドは、共同墓地へ遺体の埋葬を終えた後、少しだけ変化した。
 それは、ラティフィーネだけがわかる些細なものだったかもしれない。しかし、時折一人で外を見ているときの引き締まった口元や、元気であろうと振舞う笑顔には、それまでには見られなかった印象――ある種の逞しさのようなものが感じられるようになった。
 ウルカがファルドに遺したものは、少年が少しだけ大人になるための糧となったのだ。
 ラティフィーネは、ファルドが一人でいるときは、努めて邪魔をしないようにしている。それが、大袈裟な愛情表現を苦手とする彼女の優しさだった。
 そして今、ファルドはいない。この雨続きで決壊しそうな用水路を見回るために、宿の主人と一緒に雨の中を出ていったところだ。夫人は二階で繕い物をしている。つまり、この食堂にいるのは、ラティフィーネ独りきりである。
 開け放たれた窓越しに見る、糸のように細く降り注ぐ雨や、地面に跳ね返って小さな飛沫になる雨粒を眺めながら、物思いに耽っているのだった。
「雨……止まないわね」
 ぼつり、とラティフィーネは呟く。
 実は、人を待っていた。いや、待つというよりは、当然来るものとして待ち構えていると言ったほうが正しいかもしれない。
 ともかく、ラティフィーネは外を見ていた。
 時刻は昼下がりの頃だというのに、空を覆った雲は厚く、外は暗い。客のいない店内も、薄暗かった。
 雨音にまぎれ、こつん、とドアを叩く音がする。
 テーブルに頬杖をついたまま顔を動かしたラティフィーネの視線の先には、ルカートがドアに凭れるようにして立っていた。
 濡れそぼった金髪は額や首筋に張り付き、前髪の先端からは、鳶色の双眸を掠めて雫が落ちる。白いシャツはほとんど肌が透けるくらいに水を含んでいて、長いこと雨の中にいたことを語っていた。
 伏せ目がちのまま唇に笑みを刻み、いくらか掠れた声で、ルカートは第一声を発する。
「――やあ。ご機嫌いかがかな?」
「……あなた、やっぱり頭がおかしいんだわ」
 応じたラティフィーネには、いつものように笑みはない。
「きみはいつでも変わらないね」
 肩を震わせて、ルカートはわずかに吹き出した。
「入ったら? 今なら、あなたの話し相手くらい、付き合えるつもりだけど」
「……ついでにキスをねだったら、さすがに追い出されるかな?」
 ふざけた台詞の割には調子の出ない様子で、ルカートはふらつく寸前の足取りで店の中に入ってきた。
「身体を拭いて。話はそれからよ。ここのご主人の服も借りるといいわ」
「もしかして……きみ、僕が来るって知っていたのかい?」
「わたしは占師よ」
 あっさりと言い放つラティフィーネに、ルカートは驚いたような顔をする。
「きみが、僕の行動を占ってくれるなんてね……これって、喜んでいいことなのかな?」
「いいから、早く着替えなさい!」
 まるでファルドに言うような口調になって、ラティフィーネは奥を指差した。



 着替えを終えて再びラティフィーネの前に現れたルカートは、少々滑稽な姿になっていた。中年に近い男とすらりとした細身の青年との体格の違い、というやつである。太い胴回りは腰帯で調節できるからまだしも、どう見ても丈は足りないし、袖も短い。
 それでも、一応は着こなしているように見えなくもないところが、ルカートの恐ろしいところだったが。
「濡れたままでいるよりは、ましでしょ」
 ラティフィーネは一方的に断定すると、ルカートが椅子を引くのを待ってから、唐突に話題に切り込んだ。
「ファルドから聞いたわ。あなた、ウルカおばさんに毛布を贈って、医者も紹介したんですって?」
 ルカートの指は動揺を露骨に表現したが、溜息混じりの返答はそれを押し殺していた。
「……意味はなかったみたいだけどね」
「そうかしら?」
「彼女はあっけなく死んでしまったわけだし。僕の気紛れの贈り物なんて、きっと金持ちの偽善行為にしかならなかったさ」
「そうかしら?」
 まったく同じ問い掛けを繰り返しただけで、ラティフィーネは口をつぐむ。
 薄暗い店の中に、絶え間ない雨音だけが響く。まるで、外の時間だけが流れ、内の時間が止まってしまったかのように。
 先に根を上げたのは、ルカートのほうだった。
「……彼女は僕の母親なんかじゃないんだ」
 長い沈黙の後のそれは、静かな告白だった。
「きみは……気づいているんだろうけど。僕は、父が他所で……売春婦に産ませた子供でね。だから僕は、彼女を……最初、赦せなかった。いや……彼女を、じゃなくて……なんていうか……僕は、僕自身の苛立ちが惨めだったんだ」
 いつもの軽口は、完全に鳴りを潜めている。
 ラティフィーネは黙って、雨音と、いつもより低いルカートの声に耳を傾けていた。
「僕はね、ずっと以前に伯父が死んだときだってちっとも悲しくなかったんだ。たまに小遣いをくれたりする、悪くない人だった。……彼女は、僕にとっては赤の他人なのに……どうしてだろうね。僕はどうしてだか、とても苛々する」
 自嘲するように笑って、ルカートは湿った前髪を掻き上げた。
「とても苛々するんだ……。胸の奥がね、なんだか……痛くて」
「――悲しい、の間違いじゃないの?」
「さあ……どうだろう。僕の生活の中であの人はなんの意味も持たないし、彼女がいなくなったからといって僕の生活が変わるわけじゃないんだ。毛布も医者も……僕にとっては、手痛い出費というほどでもないんだよ。僕は……だから……僕自身を、持て余している」
「それを、悲しいっていうのよ」
 小さな吐息と一緒に、ラティフィーネは吐き出した。
「だいたい、感情なんて……悲しいなんて感情は、人によって随分違うものよ。ろくに話もしなかった人の死を悲しんではいけないなんて決まり事はないわ。あなたが彼女の姿に誰を連想したかなんて、そんなことはわたしには関係ないけど……でも、あなたが消化できずにいるそれは、別れの寂しさだとか辛さだわ。それは、悲しいっていうことよ」
「……きみには敵わないね」
「昔飼っていた犬が死んだときに、お婆が――わたしを育てた占師が、似たようなことを言っていただけよ」
 それは、本当のことである。なんとなく、上目遣いの目つきがファルドに似ている犬だった。今にして思えば、無邪気で人懐こいところもそっくりだ。
 正直に言うと、悲しいときに悲しいと泣いてしまえるファルドに、ラティフィーネは憧れている。どう考えても、ラティフィーネはそういう感情表現は苦手で、それは、真似をしようと思って簡単にできる類のものでもないからだ。それだけに、ルカートの不器用さも、ほんの少しならわかる気がするのかもしれなかった。
「きみは幸福の都を求めているんだってね」
 俯いていた顔を上げたルカートは、微笑んでいた。
「僕だって……いや、僕はきみなんかに比べたらずっと狭い範囲だけれどね、僕もこの都の中で自分が幸福になれる場所を探していたんだ。――いつだって、そうだった」
 本人が意識しているかどうかはともかく、彼の表情はとても柔和なものに変わっている。
「……ファルド君を見ているとね、あの子はとてもいい子過ぎて……僕はときどき、彼が羨ましいとさえ思うんだ。……僕は、ファルド君みたいに素直な子供じゃなかったからね。僕がもしファルド君みたいだったら……僕は、もっと楽しく毎日を送っていたんじゃないだろうか、なんてね。そんなのは僕の勝手な甘えみたいなもので……もちろん、彼は彼の辛さを抱えているし……そういう辛さに正面から立ち向かっているからこそ、彼は強いのだと思うんだけど」
「それは……なんとなく、わかるわ」
 ラティフィーネが肯定すると、ルカートは穏やかに目を細めた。
「ファルドが言っていたわ。おばさんは、あなたの贈り物をとても喜んでいたって。――嘘じゃないわ」
 素っ気なく告げるラティフィーネの言葉に、ルカートは一瞬だけ瞠目し、そして無言で頷いた。
 伏せた目元が寂しげで、それでいて優しい。
 静かな雨音が、二人の沈黙を埋めていく。
「雨は……好きだな」
 不意に、ルカートが呟いた。
「……雨にまぎれて泣けるものね」
 頬杖をついて、ラティフィーネは応じる。
 ルカートは、また微笑んだ。華やかさは薄れるが、こういう笑い方のほうが、彼にはずっとよく似合う。
 不覚にも見惚れてしまったラティフィーネは、だからルカートがそっと腰を浮かせたことに気づかなかった。
「……逃げないの?」
 目前に迫った囁きに息を飲むより早く、掠めるようにして唇が触れ合う。
 ルカートの唇は――。
 ひんやりと冷たくて、雨の匂いと哀情の味がした。


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