遥かなる幸福の都
<エピローグ>
 空は、遠く晴れ渡っていた。
 どこまでも続く澄みきった深い青空と一切の汚れを洗い落としたような白い雲が、見上げる者すべての目に眩しい。雨期が明けることを待ち侘びていた人々は戸外へ飛び出し、降り注ぐ陽光を全身に浴びる。都の外れを流れる運河には積荷を乗せた船が押し寄せ、市場は活気づき、都は、もっとも華やかな季節の中にあった。
 都のあちこちで盛大な祭りが催され、このときばかりは表町よりも裏町のほうが、より華やかになる。女達は雨期の間に編んだレースのショールを羽織り、とくに少女達は軽やかに舞うように、意中の若者と戯れ、踊るのだ。
 運河に面した広場には、どこからともなく音楽が流れている。石畳の敷き詰められたその広場の片隅に、三人は並んで立っていた。
「僕は、この祭りの時期が嫌いじゃないよ。ここを『幸福の都』と呼ぶに相応しいと、唯一思えるときだから」
 広場を囲む建物の壁に凭れたまま、ルカートが独り言のように呟いた。
 ラティフィーネはちらりとそのほうを見遣ってから、頷くでも否定するでもなく、再び賑やかな人通りに注目する。
「わあ、また船が来たよ。あそこ、見て。お花がたくさん飾ってある!」
 ファルドは、いつもながら元気だ。好奇心が旺盛で、色々なものに目を奪われては、歓声や驚きの声を上げているのだった。
「……こんな所まで出てきてよかったの?」
「ファルド君は楽しそうだけど、きみは、こんな賑やかな場所は嫌いだったかい?」
 ラティフィーネの問い掛けに、ルカートはわざとらしく伸びをする。
「そんなことを言ってるんじゃないわよ」
「大丈夫、きみが気にするようなことじゃないさ。僕はうまくやってる。不可解な事件を目の当たりにしたせいで精神的に大きな傷を負ってしまった僕は、家族の愛情に見守られながら、順調に回復中だよ。こうして、一人で出歩く許可も下りたしさ」
 悪戯っぽく片目を瞑って、ルカートは笑った。
 ――そう。あの日以来、ルカートはほとんど完璧なまでに、脆い心を抱えた青年を演じきっているのだった。彼の父は息子を心配して医者に診せたり、気晴らしに芝居見物などを持ちかけたりしているらしい。
 ラティフィーネとファルドといえば、ルカートが手配していた、この都の外れにある宿屋に身を潜めて過ごしていた。老夫婦が営んでいる宿で、耳は遠いが親切な人達である。ルカートとのやりとりはほとんどが手紙で、直接三人が会うのは久しぶりのことだった。
「……珍しくも母が僕に話しかけてきたりね、姉は用事もないのに僕の部屋に顔を出したり。まあ、医者が僕をなるべく不安にさせないように言ったせいなんだけど……正直言うと、驚いているよ。今更あれは芝居だったなんて、とても言い出せないね。僕自身、自分が役者になれるんじゃないかと思っているくらいだ」
「詐欺師、の間違いじゃないの?」
「酷いなあ。きみのための大芝居だったっていうのに」
 ラティフィーネの容赦ない台詞にも、ルカートはまったくこたえていない。ファルドに問われて、新しい船の積荷の行き先を答えている。
 ルカートが、初めて出会った頃よりも優しい顔をすることが増えたことに、ラティフィーネは気づいていた。そしてファルドは、以前よりも頼もしくなったような気がする。これまでと同じように、じゃれるように抱きついてくることはあるが、ときどき驚くほどしっかりしたことを口にするようにもなった。「もう暗いのは怖くない」と、それまでのように同じベッドで寝ないことを宣言されたとき、ラティフィーネのほうが寂しく感じたことを、きっと知らないだろう――もちろん、そんなことは口が裂けても言えないが。
「きみには、感謝しなくちゃいけないと思っているんだ」
 突然、ルカートがそんなことを言った。
 ラティフィーネが見上げると、彼は青い空を仰ぎながら、穏やかに微笑んでいた。派手さはなく、どちらかというと弱い顔だが、それはラティフィーネが一番好きな彼の顔でもある。
「幸せは、必ずしも他人との比較の上には存在しない。僕は僕以外ではありえないんだってことに……ようやく気づき始めたんだよ」
「……わたしは何もしていないわ。それは、あなた自身が感じたことよ」
「だけど、きっかけをくれたのはきみさ。僕はお陰で、幸福の都の入り口に立つことができたんだから。きみに出会わなければ、僕はきっと後悔していたよ。五年後か十年後か……それはわからないけれど」
「買い被りだわ」
 それだけ言って、ラティフィーネは再び人込みへと視線を投げた。
 素っ気なくしてしまったのには、理由がある。実は、眩しかったのだ。ルカートの肩越しに見える空の青さが――いや、もしかしたら彼自身の柔らかさや、どこか満ち足りた安らぎといったものが。そして、彼に少し嫉妬したのかもしれなかった。
 ルカートは一足先に、幸福の都に辿り着こうとしている。それが悔しい。
「……わたし達、明日にはこの都を立つことにしたの」
「うん」
「わたし、一度実家に帰るつもりよ。でもそれは、貴族の娘に戻るためじゃないわ」
「――そう」
 どちらも、ルカートの返事は短かった。
「ルカートは……僕達がいなくなったら寂しい?」
 ファルドの無邪気かつ真面目な質問に、初めて彼はにっこりと満面の笑みを浮かべる。
「そりゃあ寂しいさ。僕も、できることならきみ達と一緒に行きたいよ」
「一緒に来ることができたらいいのにな。そうしたら、きっと楽しいのに。だって僕、ルカートのこと好きだもの」
「僕も、ファルド君のことが大好きだよ。だけどね、僕には僕の仕事があるんだ。この都でしかできない、僕の仕事がね」
 ファルドは俯いて、それ以上は言わなかった。口に出した言葉は本心だろうが、それが思い通りにはならないことを、ちゃんと知っている。だから、言葉ではうまく表現できないその感情をどう伝えればいいかわからずに、黙るしかないのだ。
 ルカートはそんなファルドの黒髪をくしゃくしゃに撫でて、それからラティフィーネを見た。
「今更だけど……僕は、この都を嫌いじゃないと思い始めている。だからこそ、この生活に背を向けることはできないんだ……少なくとも今は。両親や姉達にとって、よい息子や弟でありたいと、今はそう思うよ。ラティフィーネ、きみが実家を目指すのも、きみがきみ自身を見直すためだろう? ――違うかい?」
「……わたしも、やっと気づいただけよ」
 余裕の素振りのルカートが少しだけ癪で、でもそれを気取られまいと、ラティフィーネは髪を掻き上げる。
「わたしがわたしらしくないときに得られる幸せなんて、それは本当の幸せじゃないわ。だからもう一度、わたし自身の選んだ道を見極めたいの。逃げ出したまま旅を続けるのじゃなく、けじめをつけたいだけよ」
「もしも、きみのご両親が本当にきみを探しているとしたら……?」
「わたしは今更、ご令嬢とやらには戻れないもの。それに、両親はわたしをあてにするほど形振り構わない人達じゃないと思っているわ」
 ルカートはなぜだか楽しそうに笑って、それから思いついたようにファルドの頬を突付いた。
「ねえファルド君、きみはとってもいい子だし、おまけに強い子なんだから、簡単に泣いたりしちゃ駄目だよ」
「泣かないよ!」
 意地悪く笑うルカートの胸を両手で叩きながら、ファルドは頬を膨らませる。
「僕、ちゃんとラティを守るよ。僕は弱虫じゃないんだから! 僕がいたら安心だって、ラティも言ったもん」
「そう、それは頼もしいね。じゃあ、この次に会うときは、ファルド君は今よりもずっと立派な男の子になっているに違いないわけだ」
 含みのある台詞を口にして、ルカートは器用に片目をつむった。
 ちょうど、軽やかな曲を奏でながら、列を組んだ音楽隊が広場の脇を横切っていった。ファルドはたちまち歓声を上げてそのほうへ駆け出し、広場の半分ほど行ってから、二人を振り返って大きく手を振る。
「……二、三年くらいなら、僕は待てる気がするんだけど」
 愛想よくファルドに片手を振って応じながら、ルカートがそんなことを言った。
「都は薄情な所さ。噂なんていうものは、新しい話題があればすぐに移ってしまうものだよ。きみがこの都にいたっていう事実も、いつの間にか消えてしまうんだ。でも、そうしたら……きみは、またこの都に戻ってきてくれるかな」
 ラティフィーネは、咄嗟にどう返答していいものかわからず、表面上では眉根を寄せる。すると、ルカートは珍しく困ったような笑みを浮かべ、やがてそれを真顔に変えた。
「僕は、素っ気なくて愛想がないきみも、思ったよりずっと行動力のあるきみも、実は照れ屋なきみも、丸ごと魅力的だと思う。つまり……きみを好きになってしまった、と言ったら、理解してもらえるのかな?」
「……都は薄情な所なんでしょう? あなたがわたしやファルドのことを忘れないと、どうして言い切れるの?」
「僕は、恋の力を偉大だと信じているからさ」
 さらりと断言して、ルカートは例の穏やかな微笑を浮かべる。
「きみは馬鹿なことだって呆れるだろうけど……僕は想像しているんだ。将来、もしも僕達に子供が生まれたら、ファルド君みたいな子だといい、なんてね。僕達の周りに幸福の環が広がって……そうしたら、いつか幸福の都が実現するかもしれない」
「壮大な計画ってやつだわね」
「そうさ。その、壮大な計画を実現させるためにも、きみが必要なんだよ。……そもそも、僕達みたいな未完成な寂しがり屋は、お互いを必要とするものなんだ。僕の生涯を賭けてもいい。僕達の恋は次に出会ったときに、改めて始まると確信しているよ」
 どこからそんな自信が沸いてくるのか、ルカートはまったく平然として、言葉には淀みがない。
 仮にも占師相手に未来のことを宣言するとは、一歩間違えば、ただの妄想癖の変人である。しかしそれは、間違えればという前提があるからで、占師の見解と一致した場合には、彼は素晴らしい直感の持ち主ということだ。
 ラティフィーネは呆れながらも感心して、ついに笑ってしまった。
「あなたって、占師の素質もあったのね」
 笑いながらそれだけ言うと、ラティフィーネは右耳の金環を外した。そして、完全に驚いた顔をしているルカートの目の前に、それを摘んで差し出す。
「わたしはこれを賭けることにするわ」
「え……と……?」
「これは、先代から受け継いでいる、わたしの一番大事な物よ。あなたに預けておくわ。失くしたりしたら容赦しないから」
 ルカートはそれを両手で受け取ると、まじまじとラティフィーネを見つめた後で、伏せ目がちに微笑んだ。
「ラティ、ルカートっ。ねえ見て、音楽隊がこっちに来るよ!」
 広場の中央から、ファルドが飛び跳ねながら二人を手招きする。
 広場の脇を通り過ぎた一隊は、船着場の行き止まりで向きを変え、今度は広場の中央を目指してこちらに向かっているのだった。
「お嬢さん、僕と踊ってくれませんか?」
 ルカートが、気取った動作で片膝を折りながら、右手を差し出す。
「わたし、踊りなんて……」
「構わないさ。それにほら、ファルド君が待ってる」
 言うなり、ルカートはラティフィーネの手を取った。
 軽快な音楽が、徐々に大きくなっていく。
 ラティフィーネは、広場の中央に向って手を引かれながら、暖かな陽の光を全身に浴びるのを感じた。
 幸福の都の入り口はすぐそこにある、と。確かにそう思った。
 人々の歓声が、いよいよ高まる。
 男女は手を取り合って、石畳の上を舞う。
 ラティフィーネとルカートも、その華やかな波に飛び込んでいくのだった。



 幸福の都。
 それは、東の果ての、深い森を抜けたところにあるという。また、西の洞窟の奥に広がっているのだともいう。南の海の底にあるのかもしれないし、北の氷山がそれなのかもしれない。
 どこにでもありそうで、決してどこにでもないもの。
 けれどそれは、遥か彼方に存在するとはかぎらない。
 幸福の都は、いつも――。



―了―


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