蒼天の詩〜いつか空の下〜

―2―

 ――呼び声がする。
 人の声ではない。
 哀しみと愛情と、そして無念さを包んだ静かな声。
 それは、呼んでいる。
 その声を聞くことができる者が、この世界にいると信じて。



 イゼルは独り、村外れの道に立っていた。
 寝床からこっそり抜け出してきたので、ウィアードはこの深夜の外出に気付いてはいないだろう。もし気付いていても、ほうっておいてくれたに違いない。
 ひっそりと寝静まった村は、大きな月に見下ろされながら、一切の動きを停止している。この村の住人達は朝が早いだけに、夜も早く眠りにつく。真夜中を過ぎたこの時分に起きている者など誰一人いない。
 昼間よりも冷たい空気は、透明な夜の色を纏い、漂っている。
 月明かりに照らされて、少年はわずかに微笑んだ。彼にとって、夜は恐ろしいものではない。それよりも、聞こえてくる声に強く惹かれていた。
「……やっぱり、教会からだ」
 生まれ育った山村にいる間も、イゼルには夜に散歩をする趣味があった。いや、どちらかというと癖だろうか。
 そこでは、彼の行動を不審に感じる者はいなかった。ただ、寝不足を案じる両親が、真夜中に出歩くことを禁止していたというだけで。
 なぜなら村で生まれた子供のほとんどが、程度の差こそあれ、天奏樹の囁きを聞くことができたし、その他の草木の息吹を感じることもできたからだ。それが特に敏感な子供がイゼルであり、そういう子供は稀に生まれる。
 故郷の村人達がイゼルの夜の徘徊を奇行だと思わないのは、そういう子供がえてして人との関わりよりも自然の中に身を置くことを望むと知っているからに他ならない。実際イゼルは、人の気配が落ち着く夕方から夜、または早朝を好んでいるし、村人達がそれを理解してくれていたことは、幸せなことだった。
 どこまでも続く牧草地と村との境界線に立って、イゼルはもう一度周囲をぐるりと見渡した。
 菩提樹の並木が、教会へ向かって真っ直ぐに伸びている。風はなく、愛し子を呼ぶように柔らかく、それでいて少し悲しい歌だけが、ひっそりと並木の間をすり抜けて届くのだ。
 躊躇うこともなく、イゼルは教会に向かって足を踏み出した。
 この教会には、初めて村を訪れたときにも呼ばれた気がしたのだった。あの日――あの、ティタという少女に出会ったときだ。


 愛しい子よ
 許しておくれ
 お前をこの腕から手放す罪を
 愛しい子よ
 せめてお前が健やかに育つよう


 イゼルが教会の庭の木戸をくぐったとき、そこでは虫の音さえ途絶えていた。
 土の上を歩く足音が、やけに大きく響くほどだ。
 イゼルは、腰帯から横笛を抜き出した。口元にそれをそっと押し当て、指を構える。
 たっぷり一呼吸置いてから、彼はゆっくりと目を閉じた。
 旋律が、緩やかに流れ始める。それはまるで、この場所から発せられる歌に呼応するかのように。
 しばらくすると、イゼルの周囲に極小さな光の粒が飛び回り始める。それは、様々な植物から発せられる精気の粒だ。天奏樹で作られた笛の音によって、彼等はほんのいっときだけ姿を現す。
 光の粒はやがて少年の身体を包み込み、彼の周囲をふわりと風が舞い始める。爪先立つ少年の身体が地面からわずかに浮き上がり、夜の中に混ざっていた琥珀色の髪が銀色の光を帯びていく。


 愛しい子よ……


 その想いの深さに呼応する旋律は、まるで優しく宥めるように祈りを包み込む。
 歌声のような祈りは、イゼルの心の中にまで染み入った。
 故郷の山村で暮らす両親の顔が、脳裏を掠めて、やがて遠ざかっていく。
 この、耳に聞こえない歌の主は誰なのだろう。
 光の粒を纏わせたまま、銀色の少年は導かれるようにして教会の扉の前に立った。演奏を止めた途端、光の粒は霧散して、彼の細い身体はゆっくりと地面に降りる。
「この中……」
 鉄鋲で飾られた扉を押したり引いたりしてみるが、内側から鍵が掛かっているらしく、少しも動かない。
 仕方なく、イゼルは扉の前に座り込んだ。
 石の階段は冷たかったが、寒くはない。上半身を古い木の扉に預けたまま、濃紺の空を仰ぐ。
 大きな月は、ちょうど彼が顔を上げた場所にあった。
 かぎりなく白に近い黄金色の月は、その光を地上に降ろすとき、わずかに蒼を混ぜた銀色の光に変わる。
 白い頬を月の色に染めながら、イゼルはふと思った。
 あの少女ならば、もしかしたらこの祈りの正体を知っているかもしれない。
 柔らかく優しく、そして哀しく、どこまでも温かい――。
 イゼルはやがて、まぶたを閉じた。



 ここ最近でティタが一番驚いたことは、何気なく夕暮れの道を歩いていて、突然カエルが目の前に飛び出してきたことくらいである。そんな平和な日々を送っている少女にとって、いつも見慣れた教会の入り口で少年が力なく目を閉じている様を発見したときの驚きは、かつてないものだった。
 早朝の教会で少年が扉に頭を預けて目を閉じている姿は、降り注ぐ朝陽を浴びてまるで一枚の絵のようだったのだ。それが自分の恋の相手だったのだから、驚くのも無理はない。
 やっぱり天使だったんじゃないかしら、と思うティタの頭の中に、恐怖に似た想像が膨らむまで時間はかからなかった。
「……あんまり綺麗だから、神様が連れていってしまったのかも」
 手にしていた籠を胸に抱きながら、そっと少年に近付いてみる。
 恐る恐る覗き込むと、彼が規則的に呼吸を繰り返しているのがわかった。
「……寝ているの?」
 少し安心して問い掛けるが、反応はない。
 ティタはもう一歩ばかり少年に近付いて、その顔をじっと覗き込んだ。どきんと心臓が口から飛び出しそうになるのを、ぐっと堪えて息を詰める。
 見つめる視線の先では、朝陽を浴びた長い睫毛が、頬に影を落としていた。琥珀色の髪は金茶に透けながら、形のよい鼻筋に垂れている。そばかすだらけのティタの顔と違い、肌は絞りたての牛乳のように白くて滑らかだ。
 このままじっと見つめていようかと考えるティタだったが、さすがにそれも躊躇われて、右手でそっと、少年の肩を揺すってみた。
「ねえ……こんなところで寝ていたら風邪をひくわ」
 次の瞬間、わずかに身じろいだ後、透き通るような水色の双眸がティタを見上げる。
 直後、少年は限界まで両目を見開き、逃げるように後ずさろうとして腰を浮かせた――そのとき。
 ごんっ、と予想外に派手な音が響き、少年は後頭部を抱えてうずくまった。よほど強かに、重い木の扉に頭をぶつけたらしい。
「っ……た……」
 目を剥くのは、今度はティタの番だ。
「意外と慌てん坊さんなのね」
 大真面目に告げたティタに、イゼルは腕で顔を隠すようにしながらこちらを見た。さっきまでは白かった頬が、赤く染まっている。
 ティタは余裕を取り戻して、にっこり笑った。少しだけ得意な気分になるのは、ささやかな弱味を握ってしまったという嬉しさと、生来の世話好きが少女の心を刺激したからだ。
「おはよう、寝ぼすけさん」
「……お……はよう」
「わたし、ここへ来てとても驚いたわ。朝起きたら家畜のアヒル達が豚に変わっていたり、隣町へ流れる小川の水が砂糖水になってしまったりしても、きっとこんなに驚いたりしないって、そう思うくらいよ」
 困ったような目をしたイゼルは、まだ頭を摩りながら立ち上がった。
「どうしてこんなところで寝ていたの? ウィアードさんと喧嘩でもしたの?」
 その質問に、イゼルはまたしても困惑したように黙り込む。
「……呼ばれたから」
 ようやく漏れた返答に、ティタは首を傾げた。
「たしか、初めて会ったときもそう言ったわ。それって、どういう意味? この教会が、きみを呼んだの? それとも、違う何かが?」
「僕、じゃない。違う誰かを呼んでいる」
 そしてイゼルは、やけに難しい顔――それでいて無表情のような顔で、扉を指差した。
「この中から。この中の……何かが」
「その何かの声が、イゼルには聞こえるの? それって、怖くはないの?」
 ティタが何気なく問い掛けると、イゼルは一瞬しまったというような顔をして、それから頷いた。
「不思議なことってあるものなのねえ」
 あっけらかんと言うティタに、イゼルはまた困惑したようにわずかに眉根を寄せる。
「わたし、不思議なことってあるんだと信じてるもの。だってほら、わたしは笛を吹きながらゆらゆら揺れている人なんて、初めて見たんだから。最初、きみを天使かと思ったの。本当よ」
「……気味悪がられると思った……」
「あら、そんなこと誰が言ったの?」
 戸惑いの色を強くしたイゼルに、ティタは自信満々に宣言する。
「わたし、とっても綺麗だと思ったわ。光の粒も、ちょっと緑がかった銀色の髪も」
 思い浮かべてはうっとりするくらいなのよ――とは口にしないまでも、本人を目の前にして緩んでしまう顔をどうすることもできない。
 これでは変な子だと思われてしまう、とようやく正気に戻ったティタは、取ってつけたように咳払いした。
「でも……そうね、村の中ではあんまりしないほうがいいわ。だってね、悪い人じゃないけどとっても気難しいおじいさんもいるし、すぐに怒りだすおばさんもいるんだから。うちの村の人達は、そりゃあ皆仲良しだけど、少しは気を遣って生活するものよ。無闇に驚かせてはいけないわ」
 まるで小さな子に言い聞かせるような口振りで、両手を腰に当てる。
 そのときふと、イゼルが何かに意識を奪われたように視線を上向きに逸らせた。
 つられてそのほうを見上げるティタには、早朝特有の強い日差しで白っぽく光る空しか見えない。
「この中に、何か大事なものを隠している?」
「えっ?」
 唐突な質問をするだけしておいて、イゼルは石段を下り、目の前を通り過ぎていく。しかし、ティタが慌てて呼び止めようとするより先に、少年は振り返った。
「きっと、お守りになる。……とても優しい想いのこもったものだから」
 瞬間、ティタの脳裏には、骨董の価値もないような古ぼけた宝物の姿が浮かんだ。
 少年は、あの笛のことを指しているのではないか――。そう、直感する。
 ただし、ティタにはそれを口に出して確認することは躊躇われた。なぜなら、あの笛はこの場所に残しておこうと、そう決めたものだったからだ。
 ティタが本当の意味でパン屋の娘となるために、自分を捨てた両親が残したものだと思われるその小さな宝物を、手放す覚悟が必要だったのである。――八歳のとき、自分で決めたことだ。
 思わず俯いてきゅっと唇をかみ締め、それから顔を上げると、そこにはもうイゼルの姿はなかった。
 不意に緊張が緩んだ気がして、溜め息が漏れる。緊張していたことさえ、忘れるところだった。
「ああ、驚いた。本当に不思議なことってあるんだわ」
 わざわざ声に出して言ってみた後で、ティタは元気を出すべく両腕をぐるんと振り回す。
 その拍子に、左右で三つ編みにしていた片方のリボンが解けていたことに気がついた。両端がだらんと捩れたまま、結び目からだらしなく垂れ下がっている。
「いやだ、わたしったら!」
 いつから解けていたのだろう、といまさらじたばた慌ててみるがもう遅い。
 だらしのない子だと思われてしまっただろうかと、ティタは今度こそ、深々と溜め息をついた。
 偶然にも話をすることできた幸運なこの日、イゼルの中に「片方のリボンが解けたままの女の子」として印象づけられてしまったとすれば、それは最悪の日ということになる。
「……せっかくお気に入りのリボンなのに……」
 恋する少女にとってこういう失態は、三日連続で同じ夕食を食べるよりも辛い。
 ぐっと両手を胸の高さで握り締め、今度からはよほどきつく結ばないと駄目だと、へこたれない意思を固める。
 二、三度ばかり空を睨みながら頷いて、ティタは籠を抱え直しながら教会の裏手に回った。そこにある小さなドアは鍵が壊れてしまって、自由に出入りできるようになっている。ティタはいつもそこからこの教会に出入りし、内側から礼拝堂の扉を開け閉めしているのだった。
「今度会ったら、この入り口を教えてあげたほうがいいかしら」
 そうすれば、もうあんな吹きさらしの場所で眠り込んだりすることはないだろう。
 すやすやと寝息を立てていた少年の顔を思い出し、ティタは改めて頬を緩める。他の同年代の男の子とは違う繊細で冷静な顔つきのわりに、妙に子供っぽい表情をすることを発見したのは、大きな収穫だ。そこが可愛い、などとうっとりするあたり、重症である。
「さて、今日は花壇の世話もしなくちゃね」
 歌うように言いながら、ティタの気分は上向きに転じているのだった。



 イゼルが楽器屋に戻ってきたとき、既に起きていた青年店主は、狭い店の一角で古いヴァイオリンの手入れをしているところだった。商品用の棚に置いてはいるものの、実はそれは彼の愛蔵品である。
「朝帰りとはご立派じゃないか、この不良少年が」
 いつものように首の後ろで長い髪を束ねたウィアードは、片眉だけを器用に吊り上げて、イゼルを軽くねめつけた。
「保護者に心配させて愛情確認するような趣味があったのか?」
 からかうような言いかたをするのはこの従兄の常で、それが不機嫌のせいではないということを、イゼルはちゃんと知っている。
「この村は平和そのものだけどな、夜になると丘の反対側からならず者がやってきて女の子を攫うんだとさ。女の子と間違えられて悪い狼に捕まったらどうするんだ? 俺、責任もてないぜ」
「……夜中に出歩くのは……やめにする」
 どこか釈然としない言われかたであるが、イゼルはとりあえずそう応じておいた。そして、ふと注目したウィアードの横顔に――厳密に言うなら首筋と言える部分に、赤い痣のようなものを発見する。
「やっぱり、たまには出歩いたほうがいい?」
「はあ?」
 間の抜けた声で訊き返したウィアードは、イゼルの視線の先に気付いたらしく、少しばかり決まり悪い顔になる。
「お前ね、そういうことを真顔で言うのはやめなさい。俺はべつに、彼女とよろしくやるためにお前を追い出そうなんて思っちゃいないんだから」
 慌てるでも言い訳するでもなく、ウィアードは弓を片手に呆れたように言う。
 イゼルは、ここへ転がり込んでから何度か会ったことのある、金髪の女性を想像した。言葉を交わしたのは最初の挨拶くらいだが、彼女がどうやらこの店の数件隣に住んでいるということは知っている。ウィアードは、そういう女性の存在を隠そうともしない代わりに、イゼルに仲良くするよう無理強いすることもしない。
「それよりお前、どこへ行っていたんだ?」
 ヴァイオリンを丁寧な動作で棚に戻してから、ウィアードはまだ戸口に立っているイゼルを振り返った。
「……教会。そのまま眠ってた」
「ここは俺達の村とは勝手が違うんだ。気をつけたほうがいい」
 叱るとか注意するとかいう口調ではなく、まったくの日常会話のようにそういうことを告げるところが、いかにもウィアードらしい。
 イゼルが頷くと、彼は小さく笑みを浮かべて奥の台所を顎で示した。
「朝飯にしよう。今日はスープの残りがあったよな」
 もう一度頷いてから、イゼルは従兄の後に続いて台所へ進み、言われる前に戸棚から食器類を取り出す。
「教会って、村外れの古い教会か?」
 鍋の中を木しゃもじで掻き回しながら、ウィアードは言う。
「噂に聞くところによると、あの建物は壊されるかもしれないってさ」
「……え?」
「村長が、何日か前に医者を連れてきたらしい。教会は古すぎるし、新しい診療所を建てるほうがいいんじゃないかっていう話だ」
「でも、あの教会は……まだ生きているよ」
 スープをよそった木皿を受け取りながら、イゼルは呟いた。
 あの粗末な教会は、風体だけを見るのなら、朽ちていると言ってもよい。けれども、イゼルにはわかる。
 あの教会が姿を保っているのは、建物にその意思があるからだ。
「お前には、わかるんだもんな」
 小さく吐息して、ウィアードは自分の皿をテーブルの上に置く。
「……俺達の故郷なら、そんな教会を壊そうだなんて話、あり得ないよな」
 苦笑交じりの言葉に、イゼルはどう反応していいのかわからなかった。というのもウィアードは、イゼルには当然のように感じられる感覚の一切を、知識としてしか知らないからだ。
 それが、この従兄が村に戻らない理由であることを、イゼルは察している。
 ウィアードには、楽器職人としての知識と腕はある。ただし、蒼天の詩を聴くことはできない異端児だった。イゼルとは正反対の意味で、彼は特別な存在だったのである。
 だからウィアードにとって、生まれ育った村は住みにくい場所であるに違いない。三年経ったら村に戻ると言っていた、その約束を破った彼を責める気にならないのは、イゼル自身が外の世界を体験してしまったからだった。
 イゼルが村の外では少々息苦しさを感じるように、ウィアードは村を出るまでの十五年間、ずっとそうだったのかもしれないから。
「なあイゼル、その気があったら、お前の笛を楽器達に聴かせてやってくれないか。最近、あいつら元気がないみたいで」
「……わかった」
 返事をしてから、イゼルはそっとウィアードを窺う。
 細かいことに囚われたり滅多なことでは感情的になったりしない青年は、視線に気付くと茶目っ気のつもりか、片目を瞑って寄越した。
「食わないのか? 好き嫌いしていると大きくなれないぞ」
 自分の手元に視線を落とし、イゼルは不意に居心地の悪さを覚える。自分達の生まれ育った村よりも外の世界のほうがこの従兄には馴染んでいるような気がして、それを認めたくない気持ちとの狭間で、心が揺れていた。

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