蒼天の詩〜いつか空の下〜

―3―

 ティタが小さな楽器屋を訪ねるのは、パンを届ける朝の時間と決まっていた。それを今日にかぎって夕方に訪れたのには、理由がある。
 教会で眠っているイゼルを発見した朝から二日目のこと、この日は客として来たのだ。
「やあティタちゃん。どうしたの? 俺、今朝のパンのお金間違えた?」
「ううん、そうじゃなくてっ」
 店の奥から出てきた青年に大慌てで首を振り、ティタはいつも提げている籠の中から木箱を取り出した。
「今日は、わたし、お願いがあって来たんです。笛を……わたしの笛なんだけど、ずっと音が鳴らなくて……それで、できれば修理してほしくて」
「見せてもらってもいいかい?」
 興味を持った様子で、ウィアードはティタの手の上から箱をそっと取り上げる。そして、慎重な動作で箱の蓋を持ち上げると、その中を覗き込んで軽く息を詰めた。
「ウィアードさん、どう? もう随分古いものだと思うんだけど」
「……ねえティタちゃん。これ、どこで手に入れたの?」
「ええと……本当のところはわからないの。でも、わたしが赤ん坊の頃から持っているものよ」
 いつも穏やかな青年の顔つきが少しばかり強張ったことに、ティタは不安を覚えてしまう。
 見ただけでどうしようもないほど、状態が悪いのだろうか。それとも、ウィアードではわからないものなのだろうか。
「ウィアードさん、駄目だったら、わたし諦めるわ。もしかしたらって、そう思って来ただけだから」
「いや……もっとよく見せてもらうよ。少なくとも、綺麗に磨いて艶を出してあげることはできると思う」
「本当?」
 目を輝かせたティタに、ウィアードはにっこり笑うと、そのまま店の隅にある作業机の上に笛を置き、引き出しから道具箱を取り出した。
「少し、見て行ってもいい?」
「どうぞ。お嬢さん」
 ウィアードが快く承諾てくれたので、ティタは胸の前で両手を軽く叩いた。
 くすりと笑って、楽器屋の若い店主は道具箱から布やら小瓶やらを取り出す。それを手際よく作業机に広げると、思い出したように一度奥に引っ込んで、しばらくして戻ってきた。
「あら、ウィアードさんって眼鏡をかけるの?」
「仕事のときはね。細かい作業をすることが多いから」
 眼鏡の奥で笑って、ウィアードは椅子に腰掛ける。
 ティタが眼鏡のことを知らなかったのは無理もない。なぜなら知り合ってから二年になるのに、この青年が仕事をしているところを見るのは初めてだったのだから。
「わたし、ウィアードさんが仕事をするの、初めて見たわ」
「休憩の間に仕事をするのが俺のやりかただから」
 冗談だとは思うが本気にしか聞こえない口調で言い、ウィアードは慣れた手つきで眼鏡を押し上げる。
 そして目の前で展開されたその光景は、初めて目にする少女にとって、地味な魔法のようだった。
 作業机の斜め上にある明り取りの小窓の下で、ウィアードは実に鮮やかな手つきで道具と布を操り、笛を磨き上げていく。布が取り払われた部分は、不思議なくらい輝きを取り戻しているのだ。
「ウィアードさん、本当はとっても腕のよい人なのね。仕事の動作に隙がないことは、とても大事なんだって、父さんが言ってたわ」
「そう? それは嬉しいね」
 顔を上げないまま穏やかに微笑んで、ウィアードは不意に手を止めた。
「実を言うと、古い楽器の扱いは、イゼルのほうが得意なんだ。あいつ、今ちょっと出掛けているから……これ、今夜預かっても構わない?」
「もちろん、お願いします」
 ぴょこんと頭を下げ、ティタは思わず本音を口走る。
「ちょっとだけそんな気もしていたの。イゼルだったら、わたしの笛も綺麗な音色にしてくれるんじゃないかって」
「――え?」
「ええと……ごめんなさい。わたし、ウィアードさんの気を悪くさせるつもりじゃなくて……っ。なんとなく、そういう不思議なことができそうだと思っただけで」
 急に顔色を変えてこちらを見たウィアードに、ティタは慌てて弁解した。てっきり、余計なことを言ったせいで、この青年の自尊心を傷つけてしまったのだと思ったのだ。
「ティタちゃん、きみ……もしかして、イゼルが笛を吹いているところを見たのかい?」
 ウィアードの顔つきは、いつもより硬い。
 慎重なその問い掛けに、ティタは素直に頷いた。そしてその後で、もしかしたらイゼルが不思議な少年であると知られることを、ウィアードは心配しているのではないかと気付く。
「わたし、他の誰にも話していないわ。天使かと思ったくらい綺麗だったけど、きっと誰も信じてくれないと思ったし……言ってはいけないような気もしたから。本当よ」
「……イゼルはそのことを知っている?」
「知っているわ。ついこの間の朝、教会で会ったもの。入り口の階段で眠っているから、もしかしたら死んでしまったのじゃないかと思ったくらい。そのとき、少し話をしたから」
 嘘をついてもしょうがないので正直に言い、その直後でティタは重大なことに思い当たった。
「もしかして……絶対に見つかってはいけなかったの? 人に見られたら罰があるとか、村を出ていっちゃうとか、そういう決まりがあるのっ? もしそうだったらわたし、どうしよう。わたしが余計なことを言ったためにそうなるのよね? イゼルはわたしをお喋りな子だって思うわ。それって大問題よ。ねえウィアードさん、わたしが見なかったことにしたら、なかったことになるかしら? いいえ、なってもらわないと困るわ、わたし!」
「い、いや……ティタちゃん、ちょっと待った」
 両拳を握り締めて迫るティタに、上半身を反らしたウィアードが、眼鏡をずり落としながら制止をかける。
 我に返ったティタは、慌てて後ろに飛び退いた。あと少し遅かったら青年と鼻先が触れ合ってしまうほど近く、にじり寄ってしまっていたのだ。
 さすがにイゼルの従兄というだけあって、目と鼻筋は似ているわ――などと、頭の端で妙に感心している場合ではない。
「ごめんなさい、わたしったら、つい」
「ティタちゃんって積極的だなあ……」
 眼鏡を片手の人差し指と親指で外し、ウィアードはいつもの柔和な顔になる。
「べつにね、見られたからといってどうなるわけじゃないんだ。だけど、きみもわかってくれると思うけど、イゼルのあの姿を村の人達が知ったら騒ぎになる。歓迎されるか倦厭されるか、それはわからないけれど……俺はね、できればあいつをそっとしておいてやりたいんだよ。少なくとも、本人が道を選ぶまでは」
「……道って?」
「つまり、俺の所から自分で出ていくまでかな」
 上向きに視線をずらして、ウィアードはにこりと笑った。
「イゼルはね、いつか選ばなくちゃならないんだ。自分の村に戻って父親の跡継ぎとなるか、それとも別の生きかたを見つけるか……。今は道を探している途中なんだよ、花嫁探しも兼ねてさ」
「は、花嫁っ?」
「ティタちゃん、立候補してみたら?」
 さらりと言われて、ティタは頭のてっぺんからつま先まで、ぴんと硬直させたまま赤面する。
 お嫁さんなんてさすがに考えていなかったわ、などと考える一方、謎めいた少年の更なる謎に興味を惹かれずにはいられない。
「村に戻って跡を継ぐって、やっぱり楽器屋さんか何かかしら?」
「まあ……ちょっと違うけど、似たようなものだと言えなくもないかな」
 妙に曖昧な言いかたをして、ウィアードは小さく肩を竦める。
「でも、わざわざ村を出てくるなんて、そこでの生活は楽しくなかったの? だって、ウィアードさんも結局この村に居着いちゃったし……」
「うーん、俺とイゼルはちょっと違うからなあ。……イゼルはね、村の中で生活しているだけなら、きっと誰よりも幸せなんだ。家族にも恵まれているし、あいつがちょっとばかり変わっているからって、村人は偏見を持ったりしないから。まあつまり、そういう不思議なことが当たり前の村があるっていうことさ。地図にも載っていない、小さな村だけど」
「ウィアードさんは? 村に戻ったら、やっぱり家族や友達がいるでしょう?」
「それはそうだけど、俺はもう道を見つけたからね。稼ぎはともかく、自分の店もあるし」
 そう言いながら店を見渡すウィアードにつられて、ティタもぐるりと視線を巡らせる。
 相変わらず、壁に飾られている壊れたままの鳩時計は鳩を飛び出させているし、出入り口のドアの取手も取れかかったままだ。けれど、並べられている楽器はどれをとっても汚れひとつなく、素人目にも手入れが行き届いているのがわかる。この、一見だらしがないのか几帳面なのかわからない店の中も、こと楽器に対する店主の愛情という目で見れば、それがとてもわかりやすいのかもしれない。
「……人にはね、それぞれ生きかたってものがあるんだよ、ティタちゃん。俺は俺で今の生活を気に入っているし、イゼルはイゼルできっと自分の生きかたを決めるさ」
 ウィアードは笑ったが、ティタはなぜだか急に悲しくなった。
 この青年が無理をしているとは思わなかったが、柔らかく告げるその言葉の奥に、どうしようもないことをすっぱり諦めた後のような、清々しくもあり切なくもある――そんな、彼女にも少し身に覚えのある感覚を、見てしまった気がしたのだ。
「それよりもティタちゃん、もうそろそろ戻らないと。暗くなったら狼に食べられちゃうぞ」
 気がつくと、小窓から注ぐ明かりは、ほんのり赤味を帯びている。
「あら、大変。今日は夕飯の支度をするって、母さんと約束していたんだったわ」
「この笛は大事にお預かりするよ。じゃあ、気をつけて」
「どうもありがとう。さようなら、ウィアードさん」
 ティタは早口でそう言うと、足早にドアへ向かった。そのまま、外へ出ようとして――言い忘れていたことに気がつく。
「わたし、イゼルのことは誰にも言わないって、約束します」
 振り返り、使命感にも似た気持ちで告げたティタに、楽器屋の若い店主はにこりと笑った。
 夕暮れ間近の町は、遠くの山へ沈む陽の光を受けて、ほんのり茜を帯びた黄金色に染まっている。それは、少女のふわふわ浮きながら輝いていた恋心が、現実を知ってちょっと立ち止まってしまったような――そんな淡い切なさに、少しだけ似ていた。



 背後で小さな物音がしたのを、ウィアードは驚きもせずに振り返る。
 顔面から表情を失ったイゼルが、それでも訴えるような目をして立っていた。
「ティタちゃんがいい子でよかったな」
 ずっと聞いていたのを知っていて、ウィアードは穏やかに笑う。
「頼まれもしないのに居留守を使ったことは、謝るよ。ついでにあの子を試すようなことをして、お前は面白くなかっただろう?」
 返事はない。ただ、その透き通るような水色の瞳に、力がこもる。
 本当は、そんなことで憤っているのではないことを、ウィアードは知っていた。知ってはいたが、弁解する気もない。
 やがて、焦れたようにイゼルが口を開いた。
「……もう、村には戻らないのか?」
「聞いていた通りだよ」
「……みんな……ばあちゃんも、村の人達も、ウィアードが戻れば、きっと喜ぶ」
「ああ、そうかもしれないな」
「じゃあ……、じゃあどうして、僕等を捨てるんだ……?」
 押し殺したような問い掛けに、ウィアードは小さく首を振る。
「違うよ、イゼル」
「違わない!」
 珍しく感情を表に出したイゼルは、まるで子供のような顔をしていた。――ずっと昔、まだ二人とも子供だった頃、ウィアードが小さなイゼルの玩具を取り上げて泣かせたときと同じ。いやそれとも、ウィアードが木の上で空を眺めていたとき、まだ木登りが下手だったイゼルが、幹の下からずるいと文句を言ったときと似ているだろうか。
「ウィアードは、外の人間のほうがいいと思っているんだ。こっちのほうが住みやすいから、だから村のことなんか忘れてしまうんだ。ウィアードには、こんな村は似合わない。ウィアードの腕がよくたって、この村で本当にそのよさがわかる人なんているもんか。僕は、こんな村なんて嫌いだ」
「……困った奴だね、お前は」
 苦笑して、ウィアードは椅子から立ち上がった。
「思ってもいないことを感情に任せて言って、後悔するのは自分だぞ。小さな子供じゃあるまいし、いい加減にしなさい」
 イゼルはきつく口元を引き結んだまま、答えない。頑ななまでの固い表情は、なまじ綺麗な顔立ちをしているだけに、どこか作り物めいてさえ見える。
「お前は納得しないかもしれないけれど、俺はね、自分で決めたんだ。――それよりもイゼル、この笛のこと、後は頼んだぞ」
 穏やかに笑って、ウィアードはそのまま話を切り上げた。
「ティタちゃん、きっと待っているから。これは俺じゃなくて、お前の得意分野だ」
 縋るような目をしたイゼルは、それが黙殺されたと気付いて、背を向ける。
「イゼル、返事は?」
「……わかった」
 聞こえるか聞こえないかわからないような声がした後、台所の奥のドアが閉まる音が響く。どうやらしばらく、寝室に引きこもる気らしい。
「やれやれ、反抗期ってやつかね」
 吐息混じりに苦笑したウィアードは、茜色の小窓を見上げて、故郷の村を思い浮かべた。
 万年雪を頂く尖った山脈を背に構え、なだらかな緑の丘陵に囲まれた小さな村。朝露の輝く小道、ポンプ式の古い井戸、放し飼いにされた家畜、鮮やかな夕焼けと――そういったすべてを丘の上から静かに見下ろす、しなやかで雄大な天奏樹の大木。そして、善良で穏やかな村人達。
「……ばーか」
 妙に迫力のないこの暴言は、へそを曲げてしまった従弟に対するものだ。
 昔から、イゼルが自分にだけは妙に懐いていることを、ウィアードは自覚している。木々が騒がしい夜などはとかく一緒に過ごしたがったし、普段でも気がついたら大抵、何も言わずに近寄って、こちらの様子を窺うようにしている。それが、わかりにくいイゼルの甘えかただったのだ――それは、どうやら今でもあまり変わらないらしいが。
「忘れないから、戻らないでいられるんだよ……」
 呟いたウィアードは、ティタから預かった小さな笛に視線を落とした。
 天奏樹の枝から作った笛に、この村で遭遇するとは思わなかった。あのティタという少女には、もしかしたら何かあるのかもしれない。
 考えてはみたものの、やはりこれはイゼルの得意分野である。
 笛を箱にしまって蓋を閉じると、ウィアードは頭を切り替えて夕食の支度にとりかかることにした。
 小窓の色は、夜の手前の薄い藍色へとゆっくりと移り変わろうとしていた。



 翌朝早く、イゼルは店を出た。
 教会へと足を向けたのは、そこに行けばティタがいるような気がしたからである。彼女には教会に通う習慣があるらしいと、察したからだ。
 実際イゼルが教会に着いたとき、栗色のおさげ髪の少女は、既にその敷地内にいた。花壇の前にしゃがみ込んで、どうやら土いじりをしているらしい。
 薄紅や黄色の花に彩られたその小さな花壇がこの少女によって保たれているのだと気付き、イゼルはなおさら、この場所と彼女との関係を深いものに感じてしまう。
「きゃあ、ミミズ!」
 突如声が上がったのは、木戸をくぐったイゼルが、そっと花壇のほうへ近寄ろうとしたときだった。思わずぎょっとして、立ち止まる。
「そんなに急に顔を出したら、危ないじゃない。シャベルに分断されちゃうわよ。わたしはそんな目に遭わせたくないんだから」
 ほとんど唖然としている少年には気付かず、今日のティタも極めて元気がいい。
 こんなに賑やかな女の子は自分の村にはいなかったと、イゼルは改めて思う。だから、つい面食らってしまうのだ。
 様子を窺っているイゼルには気付かないまま、ティタは次に鼻歌を歌い始めた。何の曲かわからない――というよりも、かなり調子外れなそれは即興らしい。
「……あの……」
 イゼルが、どうしたものかと迷いながら声を掛けると、それがぴたりと止んだ。そして次の瞬間、ものすごい勢いで振り向いたかと思うと、ティタはシャベルを右手に掴んだまま、ほとんど前のめりになりながら、こちらに突進してきたのだった。
「聞いてたっ?」
 逃げ腰になるイゼルに、有無を言わせぬ勢いで、ティタが迫る。
「今の歌、聞いてたっ!?」
「……え……えと……ちょっと、だけ」
 イゼルが正直に答えると、ティタはその場で数秒停止し、それからがっくりと肩を落とした。
「……最悪だわ、わたし。実は音痴なの」
「で、でも……楽しそうで……いいと思うけど」
「本当に?」
 上目遣いのティタに、イゼルは急いで頷く。そうすると、少女はようやくほっとしたように息を吐き出し、それからふと思いついたように小首を傾げた。
「今日も、呼ばれたの?」
「いや、今日は……これを届けに。音、出るようになったから」
 言いながら、イゼルは片手で抱いていた木箱を差し出した。
「本当っ? 開けてもいい?」
 ティタはシャベルを足元に置くと、両手を丁寧に払ってから箱を受け取る。そして蓋を慎重に開けると、中から笛を取り出した。
「……すごい、わたしの笛じゃないみたい」
 溜め息のように呟いて、ティタは目を輝かせた。
「こんなに綺麗になるなんて、わたし、信じられないわ。まるで新品みたい。ウィアードさんが丁寧に磨いてくれたから、こんなに綺麗になったの?」
「……それもあるけど」
 問い掛けられて、イゼルは少し躊躇する。しかし、この少女なら信じてくれるような気がして、本当のことを話すことにした。
「この笛は、病んでいたんだ。長いこと放置されて……きっと寂しくて。それを癒してあげることができたから……本来の、澄んだ音を取り戻した」
「もしかして、あの……ええと、光の粒みたいなの? あの光のお陰で、裏庭の木が元気になったのを、わたし、見たわ」
「……多分、これは……きみのお父さんかお母さんか……誰かが、手放したものだと思う。家に持って帰ったほうがいいよ」
 真剣な顔をして聞いていたティタは、それで、少し困ったような顔になる。それからややあって、彼女にしては珍しく歯切れの悪い調子で言った。
「実はね……わたし、この教会に捨てられていた子供なの。今の家には、牧師様が亡くなったときに引き取られて」
「――え?」
「あ、でもね、わたしはとっても幸せだし、不満なことなんて何もないのよ。だけど、この笛は今の父さんと母さんのものじゃないから……この教会を出るときに、置いていこうって決めたの。だって、そのほうがこの場所をもっと大切にしておけると思って」
 ティタの言う言葉の意味を、イゼルは自分の想像の中に見つけようとしたが、それは難しかった。なぜなら、イゼルはティタではない。当然のことだが、この少女がどんな気持ちで毎日ここへやってくるのか、それをわかったつもりになることは、できなかった。
「想い出を、置いていこうと思ったの。わたし……もちろん、今の父さんと母さんも大好きだけど、牧師様も好きだったわ」
「……うん」
 頷いたのは、ティタが本当にこの場所を大切にしているという気持ちだけは、よくわかったからだ。そしてこの少女を、見かけよりもずっと大人だとイゼルは思った。
 いつも元気で明るくて、賑やかにしていることは――きっと、悲しいとか寂しいとか言って泣いているよりも、難しい。
「でも、本当に素敵。こんなに素晴らしいことは、神様にしかできないと思っていたわ。ウィアードさんもイゼルも、本当に腕のいい楽器屋さんなのね」
 にっこり笑い、ティタはイゼルの顔を覗き込む。ことさら明るい声なのは、もしかしたら神妙になってしまった空気を盛り上げようとしていたのかもしれない。
「ウィアードさん、こんなに素敵なことができるなら、最初からもっと宣伝すればよかったのに。村には、わたしの笛みたいに……ええと、病気になっちゃった楽器があるかもしれないわ」
 せっかくティタは明るく言ってくれたのだが、今度はイゼルが複雑な心境に陥ってしまう番だった。
「ウィアードは……修理することはできても、癒すことはできないんだ。それに……その笛がよくなったのは、それが天奏樹の枝から作られたものだから」
「それって、どういうこと?」
 眉根を寄せて首を捻るティタに、イゼルは少し考えてから、説明した。
「ウィアードは、僕のように笛を吹くことはできないんだ。普通に楽器を演奏することは、できるけど……。村で生まれた大抵の子供は、自然の声を聞いたり感じたりすることができるのに、ウィアードにはそれができないから」
「どうして?」
「……わからない。ときどき――本当にたまに、そういう子供が生まれるんだ。僕は……ウィアードとは逆で、特別に敏感なほうらしいって……ばあちゃん達は言うけど」
 話しながら、イゼルはティタのほうを窺った。もしかしたら、ちっとも信じてもらえないかもしれないと思ったからだ。しかし、彼女はじっと話に耳を傾けてくれている。
「村には、天奏樹という大きな木があって……その木が奏でる音を、僕等の村では蒼天の詩と呼ぶんだ。……天上から響く、柔らかくて透明な音。その木の枝が毎年、鈴のような音を響かせて抜け落ちて……僕等は、その枝から楽器を作る。僕の笛も、そうやって作ったんだ」
「わたしの笛も、そうやって作られたものなのね? でも……もしそうなら……わたしの本当の両親は、その村の人だったかもしれないの?」
「それは……わからない。もしかしたら……ばあちゃんなら何か知っているかもしれないけど……村で作った楽器は、他所の村にも流れるから」
「それはそうよね。もし両親のことまでわかったら、わたし、本当に驚いちゃうところだったわ」
 いつもと変わらない笑顔を見せるティタは、両手の中の笛を撫でる。
「でも、よかったわ。ちっともわからなかったこの笛のこと、少しはわかったんですもの。わたし、この笛のこと、今までよりずっと大事にするわ」
「きっと、笛も喜ぶよ。天奏樹から作った楽器には、心が宿るものだから」
 イゼルが言うと、ティタはもう一度笑って、それから少し悪戯っぽい目をした。
「笑ったほうが、ずっと綺麗ね」
「え?」
「イゼルは、笑ったほうがいいわ」
 自分が笑みを浮かべていたことに気付いていなかったイゼルは、慌ててティタから目を逸らす。そんなことを面と向って言うような、そんな女の子も村にはいなかった。
「ねえ、お願いがあるの」
「……な、何?」
「この笛で、何か聴かせてほしいの。わたし、まともに吹ける曲なんてないから」
 お願い、と笛を差し出されて、イゼルは素直にそれを受け取った。
 通常の横笛よりもずっと小さくて短いそれを、そっと口元へ運ぶ。
 やがて、周囲には澄みきった旋律が流れ始める。高い音だが、小鳥のさえずりよりも柔らかで、心の奥まで染み入るような音色。
 イゼルが選んだのは、彼の生まれた村に伝わる子守唄だった。
 この音色が、優しく少女の心に届けばいいと――願いながら。

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