蒼天の詩〜いつか空の下〜

―4―

 古い廃屋のような教会の敷地に、笛の音が響いている。
 柔らかく流れるような旋律と、それをなぞるような、かなり危うい単音の連続。ときどき、突拍子もない音を出してはやり直し、何度か繰り返すうちにいくらかはましな音色へと変わっていく。
 イゼルとティタは、毎朝のように教会で会うようになっていた。ティタが笛を上手に吹けるようになりたいと言い、イゼルが教えてやることになったのだ。
 実際は、少女の強引さに否とは言えずに引き受けざるを得なくなった、というものだが、それでも数日続けるうちに、イゼルの教会通いも習慣になっている。
 礼拝堂の入り口の階段で、朝陽と鮮やかな草木に囲まれて笛を吹くのは、イゼルにとっても楽しかったのだ。旋律に同調してしまうと変化してしまう姿も、当たり前に演奏するだけならば本来と変わりないままでいられる。
 ティタは、まずまず優秀な生徒だった。音と音の間にぎこちなさはあるが、簡単な曲ならば吹けるようになったし、なにより熱心だ。
「わたし、少しは上手になった気がするわ。でもきっと、もっと練習しなくちゃ駄目ね」
 ひとしきり練習を終えた後、ティタはどうにも悔しそうな顔をして言った。先に石段の上に腰を下ろし、イゼルが隣に座るのを待ってから、問い掛ける。
「イゼルは、笛を誰から習ったの?」
「ウィアードが吹いていて……最初はそれを真似してた。ウィアードはどんな楽器でも大抵、上手に演奏するんだ」
 イゼルにはその従兄が、最近では少し遠くに思えていた。
 もしかしたらこちらが一方的に意識しているだけなのかもしれないが、ここ数日というもの、強くそう思えてならない。
「ウィアードさんって本当に器用なのねえ。ちっとも知らなかったわ」
「木登りも、走るのも、牛を追うのも、僕よりずっと上手だよ。勉強だってできたし……誰からも、頼りにされていたから。ウィアードの作った楽器は、どれも最高だった」
「イゼルはウィアードさんのこと、本当に好きなのね」
 当たり前のように言われて、イゼルは目を瞬かせた。
「だって、自分のことよりよく話すもの」
「……うん。でも……ウィアードは、僕等の村を出ていった。もう、戻る気はないみたいだし……村のことなんか、忘れてしまったのかもしれない。……天奏樹の音が聞こえなくても、外の世界ならそれが当たり前だから。きっと、僕等の村のことが面倒になったんだ」
 言ってしまった後で、イゼルは後悔した。
 口に出すと、急にそれが現実味を帯びて、絶対に動かせない事実のように思えてしまうからだ。
 ウィアードが二度と村へ戻ってこないということを、イゼルは認めたくなかった。もしも将来、自分が父親の後を継いで村長となるのであれば、いつも穏やかで冷静な従兄がその手伝いをしてくれるものだと、小さな頃から疑わなかったのに。
「わたし、そうじゃないと思うわ」
 勝手に沈んでいくイゼルの心境に反して、ティタの声は妙に明るい。
「だって、ウィアードさんがそう言ったの?」
「……言わないけど」
「じゃあ、違うと思うわ」
 妙に自信たっぷりに言ってから、ティタは少しばかり真面目な顔をした。
「この間、ウィアードさんが言っていたの。人にはそれぞれ生きかたがあるんだよ、って。わたし、それは本当のことだと思うわ。好きとか嫌いとか、そういうことじゃなくて……自分で決めなくちゃならないことってあるもの。ウィアードさんは、きっとたくさん悩んで、それで決めたんだと思うわ」
 ティタはときどき、とても大人ぶった物言いをする。
 ウィアードのことは誰よりも知っているはずなのに、ティタには理解できて自分にできないことが、イゼルは悔しかった。
「それにね、本当に大切な場所っていうのは、忘れないものだと思うわ。わたし、この教会がなくなっても、きっと壁の染みもひとつ残らず、言える自信があるもの」
「……そんなこと、できるもんか」
 膝を抱えて呟いたイゼルに、ティタは困ったように笑う。それがまるで母親がする表情のように思えて、余計に癪だった。
 ティタは村の人間ではない。だからそんなことが言えるのだと、イゼルは思った。――そう思うことで、悔しい気持ちを誤魔化そうとした。
「生まれた村のことも、とても大事なのね」
 不機嫌を察したからなのか、それとも気付いていないのか、ティタは明るい笑顔を作る。
「わたし、初めてイゼルの笛の音を聴いたとき、知ってるって思ったの。なんだか懐かしい気がしたわ。それでね、わたしの笛が同じ木……ええと、天奏樹の枝から作ったものだと知ったら、余計にそういう気分になったのよ。もしかしたら、わたしが赤ん坊の頃、本当の父さんか母さんが、この笛を吹いて聞かせてくれたのかもしれないって」
「それは……多分、そうだと思う。だから、笛には心が宿ったんだ」
 ぼそりとイゼルが応じると、ティタは目を輝かせた。ずいと身を乗り出して、これを機会とばかりに勢いよく言葉を連ねる。
「でね、それが本当だとしたら、わたしはイゼルと同じ音を聞いていたってことよ。これって、すごい偶然よ。もう運命かしらって思っちゃうくらい! だからわたし、そんな素敵な木のあるイゼルの村を、きっと好きだと思うわ。つまりね、わたしでも好きだと思うくらいだから、ウィアードさんがそうじゃないはずはないってことなの。わかる?」
 何が「だから」で、どう辻褄を合わせれば「つまり」なのか、抗議する隙をティタは一切与えてくれない。
 結局、イゼルは半ば気圧されるようにして頷いた。何はともあれ、この元気があり余っている少女は、どうにか慰めようとしているのかもしれない。そうだとすると、自分がまるでいじけた子供みたいで、恥ずかしくなった。
「わたし、五歳のときにこの石段から落ちたことがあるの。幸い怪我はかすり傷だったけど、それはもう大きな声で泣いたのよ。それから、花壇の手入れの方法は牧師様から教わったわ。礼拝堂の中には、数えられるだけで十一個の染みがあるのよ。ひとつは壁の下のほうにあって、夕方に見るとネズミかと間違えちゃうの」
 勝手に話し始めたティタは、ふふふと笑って、イゼルの顔を覗き込んだ。
「それに、ここで笛の練習をしたことも忘れないわ、わたし。この教会がなくなっても、やっぱり忘れないと思う」
「それ……もしかして、診療所に変わるかもしれないっていう話?」
 少し前にウィアードが言っていたことを、イゼルは弾かれるように思い出した。忘れていたわけではないが――噂だというその話が現実のものになるかもしれないということを、本当には理解していなかったのだ。そういう意味で、生まれたときから独自の常識に守られていた少年は、外の世界に対する心構えが未完成であり、そしてあまりにも無知だった。
「村長さんのお話だと、早ければ、明後日の午後から作業が始まるんですって」
「……え……」
「わたし、ここが診療所に変わっても、ずっと好きでいられると思うわ」
 誇らしげに言って、ティタは立ち上がり、石段を飛び降りた。栗色のおさげ髪とリボンが、背中でぴょんと跳ねる。
「あら大変。もうお日様があんなに昇ってる。わたし、帰らなくちゃ。今日は粉屋さんの荷車が来る日なの。昼前に来るから、その前に粉袋を積み上げる倉庫を掃除しておかなくちゃ」
 早口でそう言うと、ティタは石段に置いていた籠を手に取り、イゼルに向って手を振った。
「またね、イゼル。今日も付き合ってくれて、ありがとう」
 にっこり笑って回れ右をし、大急ぎで走っていく。
 黙って見送ったイゼルは、古い石と汚れた漆喰の壁に抱きつくようにして、身体を寄せた。
 ひんやりと冷たくて――けれど温かい。
 どうして、この村の人々は、忘れてしまうのだろう。
 昔はきっと、この教会を誰もが好きだったに違いないのに。ここに植えられた草木のことも、同じように愛したに違いないのに。
 ――変わらずに、見守られていることにさえ気付かないで。



 時間に正確な粉屋は、昼前にパン屋の前までやってきた。
 隣町の製粉工場からロバに荷車を引かせて小麦の粉袋を届けにくるのは、ティタよりもずっと年下の男の子と、その父親である。
 父親は寡黙だが、少年は明るくてティタと仲良しだ。
「いつもお手伝いして偉いね」
「子ども扱いすんな」
 最近は少々生意気なのだが、それはそれで可愛い。
 今朝のイゼルもちょっといじけたところが可愛かったと、つい思い出し笑いを浮かべるティタは、ふと我に返っては口元を引き締めるのだった。
 やがて小麦粉の袋を全部倉庫に詰め終わると、少年はティタの母親からもらったお菓子をポケットの中に突っ込み、満足そうな顔をする。
「妹に持って帰ってやるんだ」
「ふうん。お兄ちゃんって大変ね」
「まあね」
 ちょっとばかり自慢そうに、少年は鼻の頭を擦った。
 ティタには、兄弟はいない。パン屋に出入りする若い職人はティタを可愛がってくれるし、近所の赤ん坊をあやしたりするのも得意だが、本当の兄弟というものへの漠然とした憧れはある。――最近はウィアードとイゼルの二人を見ているせいで、余計にそうなのかもしれなかった。厳密には彼等は従兄同士だが、ティタにとっては同じようなものだ。
「そういえばさ、あの外れのほうにある教会、修理するの?」
「あらどうして?」
「俺と父ちゃんが前の道を通ったときにさ、いろんな道具持った人達が入っていってたから」
「あれは、修理じゃなくて解体だよ」
 それまで口を利かなかった父親が、息子の発言を訂正するように口を挟む。
 それで、ティタは文字通り目を見開いて、父子に迫った。
「本当っ? 間違いないのっ? 明後日からじゃないの?」
「そういえば、村長さんは予定より早くに人手が揃ったとか言っていたわねえ……」
 妙にのんびりした口調は、パン屋のおかみさんでもあるティタの母親である。
「わたし、行かなくちゃ!」
「あらまあ、朝もずっと行っていたのじゃないの?」
「何もなかったら、すぐに戻ってくるわ」
 手早くエプロンを外し、ティタは倉庫の外に飛び出した。
 ここ数日、花壇の花を解体作業の邪魔にならない場所へ植え替える作業をしていたのだが、それがまだ途中なのだ。あと二日あるからと思って、まだ三分の一も残っている。
 それにティタは、こっそり決意していた。最初の壁が壊されるときは必ず見ていようと、半ば義務感のように思っていたのだ。
 こういう時ばかりは、いつも慣れた教会までの道がやけに遠い。
「あ、ティタちゃん」
 駆け足で通りの角を曲がったときに目の前から声を掛けられ、ティタは飛び上がるようにして立ち止まった。
「イゼルを知らないかい?」
「えっ?」
「あいつ、朝から戻ってないんだよ。ティタちゃん、何か知らない?」
 そう言われて、ティタは整わない呼吸のままで考える。これが、例えば花屋のおかみさんを見なかったかと言われたのであれば、知らないと残してそのまま走り去るところだが、イゼルに関する質問だっただけに捨て置けないのが乙女心というやつである。
「ええと……わたし、今朝は教会で一緒だったわ。わたしが先に帰ったのだけど、その後、ウィアードさんのところには帰らなかったの?」
 イゼルよりも濃い琥珀色の長髪を束ねた青年は、困ったように頷いた。
「腹が減ったら戻ってくるとは思ったんだけどね……朝も食べてないままだから。最近俺ともあんまり口を利かないものだから、ちょっとばかり気になってね」
「そういえば、今朝のイゼルは少し元気がなかったわ。ウィアードさんと喧嘩でもしたの?」
「いいや、そういうわけでもないんだけど。――けどあいつ、もしかしたらまだ教会にいるかもしれないな。他に行きそうな場所もないし」
「本当? わたし、今からそこへ行くところだったのよ。解体作業が、今日から始まるって聞いて」
 その瞬間、ティタの見間違えでなければ、何か思い当たることがあるように、ウィアードの柔和な目元に力が込められた。
「俺も行くよ」
 言うなり、ウィアードは先を駆け出した。慌てて、ティタもその後を追う。
 教会がまだ無事であるかという不安と、イゼルがどこにいるのかという心配と、ウィアードの態度の変化に戸惑うのとで、頭の中はひどい混乱状態だった。



 二人が村外れの教会の手前まで辿り着いたとき、ちょうど異変は起こった。
 敷地内にいたと思われる大の男達が、こぞって木戸から飛び出してきたのだ。
「化け物の仕業だ!」
「この教会は、悪魔に呪われているに違いねえっ」
 口々に騒ぎながら、男達は走り去っていく。
「どうしたの? 一体何があったのっ?」
 ティタは驚いて呼び止めようとしたが、五、六人の男達は慌てたまま取り合おうともせずに、散らばりながら逃げ去ってしまった。
「ウィアードさん、どうしたらいいの?」
 不安になって見上げると、青年は厳しい面持ちのまま質問には答えず、木戸をくぐって教会の敷地内に入ってしまう。
「怖くなんかないわ。か、かかってらっしゃい!」
 両手の拳を握り締め、気合を入れたティタも、遅れまいとそれに続く。しかし、敷地内に踏み入れた途端、ひゃ、と声を上げたきり、ウィアードの背中に隠れてしまった。
 というのも、目の前には信じがたい光景が広がっていたからだ。
 敷地内にだけ、唸るように風が吹いている。木々は風とはちぐはぐに揺れ動き、どこからともなく地を這うような――まるで呪いの言葉を吐くような、低い呻きが聞こえてくるのだった。いや、それはどちらかというと旋律かもしれない。
「よせイゼル! やめるんだ。そこにいるんだろう?」
 風に負けない声で、ウィアードが怒鳴る。
 その瞬間、風はぴたりと止んだ。
「え……っ? これって、イゼルのせいなの?」
「出てこい。俺の目を誤魔化せると思うなよ」
 ウィアードがもう一度言うと、しばらくして、教会の壁際からイゼルが姿を現した。
 悪戯が見つかった子供のような気まずい顔と言うよりは、理不尽なことに対する憤りを抱えたような、鋭い目をしている。右手に愛用の笛を握っているところをみると、やはり何かの旋律かと思ったのは、笛の音だったのかもしれない。
 ティタは黙っていられずに、思わず問い掛けた。
「イゼルが、皆を怖がらせるようなことをしたの?」
 まるで朝とは違う、どこか陰湿な空気を纏ったままの教会が、ティタには恐ろしかった。そしてそれを起こしたのが、いつも心が透明になりそうな綺麗な笛の音を聴かせてくれる少年と同一人物だということが、どうしても信じられない。
 イゼルはティタに見つめられているうちに、わずかにふて腐れたような顔になった。
「だって、ここはティタにとっても大事な場所なんだろう? なのに、どうして平気なんだ」
「え……」
「この教会は、まだ頑張ろうとしているじゃないか。目の前で見殺しにするくらいだったら、どうしてそっとしておいてやらなかったんだよ」
「……そんな……」
 どう返事をしていいのかわからずに、ティタはうろたえた。イゼルの憤りの矛先が、間違いなく自分に向けられているのだと感じたからだ。
「ここは俺達の村とは違う。この村には、この村の人の生活があるんだ」
 ひどく落ち着いた声は、ウィアードのものだった。
 その冷静さに、イゼルは酷く苛立ったらしい。
「だからって、ウィアードはなんとも思わないのか!?」
 それはまるで叩きつけるような、ティタの聞いたことのないほど強い語調だった。いつも、どちらかというと無愛想なくらいで、感情的になることとは無縁の、稀にはにかむように口元を綻ばす、そんな少年だと思っていた。それだけに、ティタは驚くのと同時に、この件が酷く重大なことなのだと感じた。
「……そんなこと、お前は最初からわかっているじゃないか。俺には、お前にわかることがわからない。お前が、聞こえない俺やティタちゃんのことがわからないのと同じだよ」
 いっそ冷ややかなほどの声の主が、いつも柔和なウィアードなのだという事実も、ティタにとっては衝撃的だ。
 二人は、二人にしかわからない会話をしているのだと思った。口を挟めない。けれど、この二人の言い合いを見ていると、いたたまれない気分になる。
「どうして、そういう言いかたするんだ……」
 投げやりに呟いて、イゼルは顔を背けた。
「あ、の……ウィアードさん」
「行こう、ティタちゃん」
 言いかけた言葉を遮るようにして、ウィアードはティタの腕を掴んだ。
「でも……っ」
「ほうっておけばいい。自分が特別だなんて思い上がっているような奴に、俺はこれ以上話すことはないよ」
 淡々と言い放って、青年は長い琥珀色の髪を翻した。
 その手を振り解くことができずに、ティタはほとんど強引に教会の外へ出る。思いっきり首を捻って見えたイゼルは、こちらを見ようともしないまま、まるで項垂れるようにして下唇を噛んでいた。
「ウィアードさん、ねえ、待って。話を聞いてあげなきゃ。イゼルはこんなこと、悪戯でしたわけじゃないでしょう?」
 村へと戻る道の途中を必死で踏み止まろうとして、ティタは逆にウィアードの腕にしがみつく。
 すると予想外なことに、すんなりと彼は立ち止まった。
「イゼルは馬鹿じゃないよ。自分のしたことを反省するには、しばらく頭を冷やすことも必要さ」
 それがあまりにもいつもと変わらない柔らかい声だっただけに、ティタは大いに面食らって、呆けたように青年を見上げる羽目になってしまった。
「ごめんね、ティタちゃん。あいつ、きみを傷つけるようなことを言って」
「……ううん、そんなこと」
 慌てて首を左右に振る。するとウィアードは、イゼルによく似た目元をうっすら細めながら、遠くを見るように空を見上げた。
「イゼルの怖いところはね、自分の側の感情も草木に伝えてしまうことなんだ。あいつは心根の優しい奴だから、楽器や枯れた老木なんかを癒してやることもできる。だけど、あいつがその気になったら、草木を操るような真似もできてしまうんだよ。天奏樹の笛は、奏者を選ぶ。あいつは……イゼルは、そういう意味では選ばれたんだろうな。だけど、あんまり恵まれた環境で育ち過ぎたせいで、あいつは外の世界に関して赤ん坊みたいに無抵抗で無知だ。でも、それじゃあ生きていけないんだよ。このまま外に残るとしても……村に帰るとしても」
「村に帰っても、駄目なの?」
「――イゼルは、村長の息子だからね。外とのやり取りをする大事な立場だ。共感しないまでも、外の世界の人達とうまく折り合いをつける方法は、知っておかないと」
 この青年独特の柔らかい口調が、余計にティタの知らない世界を見せつける気がする。
「わたし……本当を言うと、平気なんかじゃないわ。できることなら、あのままずっと残しておいてほしいの」
「うん?」
「でも……でもね、ウィーアドさん。イゼルが言ったのは、きっと本当のことだわ。だってわたし、あの教会のことを本当に大好きだけど……壊してしまうのも仕方のないことだって、諦めていたもの」
 ティタはイゼルに投げつけられた言葉そのものよりも、自分がそんなことを言われるようなことをしてしまっていたという事実が、悲しくて仕方なかった。
「皆を脅かしたのはよくないけど……でも、イゼルが怒るのも、当然かもしれないもの」
「……ティタちゃんは、いいお嫁さんになれるね」
 ウィアードは冗談のつもりで言ったのだろうが、それがいつもより空回りしているようで、ティタは赤面するどころか笑うこともできなかった。
 きっと、この青年も悲しいのだと思った。イゼルの従兄で、きっと小さい頃から仲良しで、そんな彼があんな突き放すようなことを言うのを、辛いと思わないはずがない。
 ティタは、ますます立ち入れない何かを感じてしまって、寂しくなる。
 それでも、イゼルの気持ちをわかってあげたいと思った。そして、ウィアードの言う外の世界――もちろんこの村のことも、嫌ってはほしくないと思った。
「わたし、後でもう一度行ってみてもいいかしら?」
 ゆっくりと歩き始めたウィアードに、ティタは遠慮がちに問い掛ける。
「だって、何も食べていないんでしょう? わたしが行っても、話をしてくれないかもしれないけど……何か届けてあげたいの。ウィアードさんにああ言われて、きっと落ち込んでいると思うし」
「ありがとう、ティタちゃん」
 にっこり笑ったウィアードは、その後で困ったように肩を竦めて見せたのだった。
「まったく……甘やかされる奴は、どこへ行ってもそうなんだから。それも運命ってやつなんだろうかね」



 村の時間が、ゆっくりと過ぎていく。
 礼拝堂の入り口に背中を預けたまま、両足を投げ出して、イゼルはここからでも感じられる村の気配に浸っていた。
 荷車が動く音、子供達の歓声、牛の鳴き声、それから隣町のほうから聞こえる鐘の音。
 ここはとても静かで、じっとしていると驚くほど村の様子がわかる。
 さわさわと木の枝葉が揺れ、それが少しだけ天奏樹の子守唄にも似ているような気がしてくるのは、もしかしたら帰りたいと思っているからだろうか。
 イゼルは、ウィアードの言っている言葉の意味が、理解できないのではない。ただ、わかってほしかったのだ。――そう、昔と同じように、理解を示してくれると思っていた。
 寂しいやら悔しいやら情けないやらで、これから何をするのが一番いいのかわからないまま、ただ無駄に時間を潰している。
 そういえば、身体に力が入らないのは空腹だからかもしれない。
 ちょうど目の位置にまで傾いた陽の光が眩しくて、目を閉じる。強い光のわりに、陽だまりは身体を温めてはくれないらしく、じっとしていると石の床から伝わるひんやりした感触のほうが強い。
 泥のような頭の中で、イゼルは故郷の村のことを考え、ウィアードのことを考え、それからティタのことを考え、やがて反発よりも反省や後悔の念が勝ったことに自分で気付く頃、陽だまりは移動して、身体の半分が影に入っていた。
 誰かが近付いて来る気配を感じたのは、身体を陽の当たっている側にずらしたときだった。
 顔を上げると、半ば予想した通りの少女が立っていた。
「お腹、空いてない?」
 まるで、数時間前のことなどなかったかのように、彼女はいつもと変わりない。
「二種類のパンと、ミルクでしょ。あと、デザートは林檎のタルトよ。母さんがパン窯で焼いたの。とってもおいしいのよ」
 愛用の手提げ籠の中を指差しながら、ティタは早口で説明した。
「ええと……お腹、空いてない?」
「……空いてる……けど」
「よかった! 本当は、もっと早くに来ようと思ったんだけど、家の手伝いもしなくちゃならなかったし、母さんのタルトが焼きあがるのに、思ったより時間がかかっちゃったの」
 まるで約束でもしていたかのような、極自然なティタらしい言いかたに、イゼルはひどく困惑する。ただ、いつもなら勧めなくても隣に座るはずの少々強引で行動的な彼女が、数歩分離れた場所から近寄ろうとしないところを見ると、気を遣っているか――もしかしたら恐れているのかもしれない。
「……ここ、座れば?」
 半分は試すつもりで言ってみる。すると、ティタはぱっと目を輝かせたかと思うと、凄い勢いで隣を陣取り、これまた目を見張る勢で床に布を敷くと、その上に食べ物をずらりと並べて、にっこり笑った。
「さあ、召しあがれ!」
 勢いに飲まれて、イゼルは丸パンを手に取った。横半分に切込みが入れてあって、そこにチーズとハムが挟んである。もう一種類は薄く切っただけの黒パンで、添えられた小さな小瓶の中身はベリーのジャムのようだった。
 強烈な空腹感を刺激されたイゼルは最初の一口を開きかけ、しかしそれをやっとのことでとどめると、興味津々といった顔つきでこちらを覗き込んでいる世話焼き少女に向き直った。
「あの……ごめん。さっき……僕、あんなこと言ったのに」
 するとティタは、どうかするとおさげ髪が顔を弾いてしまいそうなほど、勢いよく首を左右に振り、断固とした顔で答えた。
「いいの」
「でも……」
 言いかけて、イゼルは少し考える。もしかしたら、別の言いかたのほうがいいのかもしれない。
「ありがとう」
 するとティタは、そばかすのある顔を満面の笑顔で満たした。
「どういたしまして!」
 上機嫌の顔つきになったティタは、イゼルがパンにかぶりつくのを見届けると、礼拝堂の扉を背に両膝を抱え、教会の入り口のほうに顔を向けた。
「実はね、わたし、村長さんの所へお願いに行ってきたの。ここが、なるべく残るような方法はないかと思って」
「――え?」
「わたし、ここがなくなってしまうこと、平気じゃないもの。だけど、今日まで仕方がないって諦めていたわ。だってね、ここは診療所に変わるのよ。グランダートさんといって、鼻の下にぴんと髭を生やしたお医者様。わたしは一度だけ、ここで会ったことがあるわ」
 噛んでいたものをごくりと飲み込み、イゼルはティタの横顔を見つめる。
「この村には、お医者様がいないの。普段ならたいした距離じゃなくても、病気や怪我をして一刻の猶予もならないときに、隣町まで行くのは大変なことだわ。……牧師様も、この村にお医者様がいたら、もしかしたらもう少し長生きなさったかもしれない。だからね、わたし、ここが診療所になるのなら、それは仕方ないって思ったの。だけど、もしもお願いして、せめて少しでも元の教会の姿を残してもらえるものなら、そのほうがいいでしょう? 村の人達も、きっとそのほうがいいと思うわ」
「……村長さんは、なんて?」
「グランダートさんに、そう話してくださるって。もちろん、本当にどうなるのかはわからないけれど、希望はあるわ」
 いつもの早口ではなく、静かに言うそれが妙に重みがあるように聞こえて、イゼルは感心するばかりでなく、ただここで時間を潰していただけの自分を恥ずかしく思った。
「僕は、何もせずにここにいただけなのに……ティタは偉いな」
「あら、違うわ。わたし、イゼルのおかげで村長さんの所へ行こうと思ったのよ」
 にっこり笑うと、ティタは前触れもなくいつもの調子に戻る。
「このジャムはね、わたしが作ったのよ。自信作なの。父さんも毎日これをパンに塗るわ」
「うん、美味しいよ。――とても」
 イゼルは頷いたが、もちろんそれは嘘ではない。空腹のせいでなく、どれも美味しかった。
 なにより、ティタの思い遣りと行動とが、とても嬉しかったのだった。

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