遥かなる幸福の都
<第一章>
 幸福の都。
 それは、東の果ての、深い森を抜けたところにあるという。また、西の洞窟の奥に広がっているのだともいう。南の海の底にあるのかもしれないし、北の氷山がそれなのかもしれない。
 どこにでもありそうで、決してどこにもないもの。
 人々は、探し求めている。
 決して手に入らない、幻想の都を――。



 都と呼ばれるところは大抵、人や物が多く、埃っぽくてうるさい。
 行き交う人々には余裕がなく、荷車や馬車が容赦なく走り抜け、罵声や子供の泣き声や野菜売りの娘の声などが、入り混じって往来に響き渡っている。
「……なにが幸福の都よ」
 金物屋の軒下で柱に凭れながら、ラティフィーネは呟いた。
 ここは、先の戦争で戦火を逃れた都なのだという。だから、幸福の都。
 数日前にいた村は、子供が大勢生まれたから幸福の村。その前にいた町には、幸福の井戸があった。幸福の都と呼ばれる都市も、ひとつやふたつではない。
 この国は、幸福の都で溢れている。そのほとんどが通称で本当の名前は別にあるのだが、本当の名前のほうが廃れてしまっているという有様だった。
 ラティフィーネは、真っ直ぐ腰まで伸びた赤毛を指先に絡めながら、何度目かの溜息を漏らす。彼女の髪の中では、細い金環の耳飾りが揺れている。
「ラティ!」
 雑踏からこちらに駆け寄ってくる、少年の姿が見えた。
「宿を見つけてきたよ。それから、営業許可も」
 満面の笑みを浮かべるファルドは、得意そうに灰褐色の瞳を輝かせている。
「部屋はね、白い壁で、大きな出窓があるんだって。ラティ、窓が小さい部屋は嫌いでしょう? あと、下の食堂は昼間には客が少ないから、好きに使っていいって」
「じゃあ、そこへ案内して」
 ラティフィーネはそう言うと、足元の袋をひとつ、肩に掛けた。荷物はそれぞれ分担する。それが、二人の旅の数少ない決まり事である。
 ファルドはもうひとつの荷袋を背中に担いで、ラティフィーネの手を取った。
「ええとね、こっち。こっちが近道だと思うんだ」
 ファルドのこういう勘はまさに動物的で、初めての都でも決して迷うことがない。だから、いつの頃からか、ラティフィーネが荷物番をしている間にファルドが宿を探す、というのが当たり前になってしまった。
 ファルドは、実によく動き回る。旅の資金を作るのはラティフィーネの占いだが、その他の段取りや日常的なことはすべて、ファルドの仕事なのだ。それは決して、ラティフィーネが強要したことではない。出会って旅を続けている数年の間に、自然と分担が決まってしまっただけのことだ。
 弟のように歳の離れた小柄なファルドに手を引かれて歩くことも、ラティフィーネは慣れてしまった。今ではもう、どちらが主導権を握っているのかわからない。
「ねえファルド、わたし、お腹が空いたわ」
「宿の近くに、果物の市場が出ていたよ。後で買ってきてあげるね」
 この通り、多少の我侭にもファルドは動じない。にっこり笑って、優しいことを言う。
 この、くるくるとよく動く表情と小動物みたいな仕草が可愛くて仕方がないと、実はラティフィーネは思っているのだった。ただ、それを素直に表現するには、彼女はあまりにも自尊心が高い。
「そういえば、あんたが欲しがっていた本、買ってもいいわよ」
「本当っ?」
「それくらいの余裕ならあるわよ。それに、この都にはしばらく住みつくことになりそうだから、お金なんてまた稼げるわ」
 結局、どうでもいいような口調になってしまう。この類の自己嫌悪は毎度のことで、ラティフィーネは溜息をつく代わりに、軽く空を仰いだ。
 十四の歳に家出してから、丸四年が過ぎた。つまり、こんな風に旅を始めてから、四年が過ぎたことになる。
 旅の生活は、悪くはない。もともとどこかに縛られるのは性に合わないし、だから家を出たのだから。
 ――でも。
 まだ、幸福の都には辿り着けない。
 そんなものが実在するのかどうかさえ、本当は知らないのだけれど。



 ファルドが見つけた宿は、都の中心部より少しだけ外れたところにあった。うまい具合に、表通りから一本だけ路地を入ったところにある。占いという商売には、案外こういう場所が、都合がよかったりするのだ。
 出窓のある二階の部屋に荷物を置くと、ファルドはさっそく果物市場に出掛けてしまった。ラティフィーネは、食堂の隅のテーブルを借りることにして、商売の準備を始める。
 占いには水鏡を使う。銀色の、深皿のような円形の盆に水を張り、底に水晶の欠片を落とす。
 占いたいことを念じつつ水面を眺めると、ラティフィーネには、ほんの少しだけ先の未来が読めるのだ。
 最初の客は、いつも宿の主人だと決めている。代金は受け取らない。しかしこれは、大事な仕事なのだった。なぜなら、宿屋の主人に「占師ラティフィーネ」の能力を見せつけることができたなら、半日もしないうちに、客は待っているだけで必ず訪れる。言わば、重要な宣伝係を勤めてもらうというわけなのだ。
「実は、女房と喧嘩をしていてね」
 今の一番の悩みは何かと訊ねると、細面の主人は苦笑いでそう答えた。人のよさそうな、腰の低い主人だ。
 ちょうどラティフィーネとファルドがここへ着いたとき、ふくよかな女性が出て行くところだった。あれが、この主人の妻だったのだろうと、ラティフィーネは見当をつける。
「奥さんは、ちょっと太めの人ね? 金髪というよりは、茶色に近い髪の?」
「そうそう、その通りだとも!」
 主人は大袈裟に驚いて、身を乗り出した。
「ここだけの話なんだが……実は、女房の大事にしていた置物を、うっかり落として割ってしまってね。それで口をきいてもらえないというわけで」
「奥さんは、それで怒って出て行ってしまったわけね。つまり、仲直りの方法を教えて欲しいと?」
 主人が頷くのを待ってから、ラティフィーネは水鏡に手をかざした。
 ぼんやりと、水晶の欠片が光る。
 かすかに水鏡が揺れ、そこには、ラティフィーネだけに見える映像が浮かび上がった。
 主人は緊張した面持ちで、じっと息を潜めている。
「……この近くに、教会がある? 緑色の屋根で、小窓がたくさんある建物よ」
「あ、あるとも」
「奥さんなら、そこにいるわよ」
 神妙な面持ちを作って、ラティフィーネは告げた。
「仲直りをしたいなら、すぐさまそこへ行くこと。途中、赤い花を買ってね。奥さんに逢ったらこう言いなさい。頼むから帰ってきてくれ、お前がいないと生きていけないんだって。恥かしがっては駄目よ。ちゃんと謝ってそう言えば、きっとうまくいくわ」
「わ、わかった」
「ここは、とりあえずわたしが店番をしておいてあげるわ」
 ラティフィーネがそう言い終えるなり、主人は感謝の言葉を残して、店から飛び出して行った。
「まったく……平和なことだわね」
 馬鹿馬鹿しいという台詞の代わりに、ラティフィーネは呟いた。
 悩みが博打の借金だの命が危ないだの、そういうものでないというのは、本当なら喜ばしいことなのだろうが。
 ラティフィーネが実際に占ったのは、主人の愛する奥さんの居場所くらいのものだ。あとの演出は、適当に言ってやっただけのこと。主人の口振りからすると、本来の仲は悪くないのだろうし、放っておいても仲直りなど自分達で勝手にするだろう。つまり、占師など出る幕はない。
「ラティ、ただいま。見て、とっても美味しそうなんだよ」
 そこへ、息を弾ませてファルドが戻ってきた。拳大の真っ赤な林檎をひとつ、大事そうに胸に抱えている。
「ひとつだけ?」
「え? ひとつじゃ足りなかった?」
 真顔で訊き返すファルドの様子では、自分のためにもうひとつ買うなどという考えは、微塵も浮かばなかったらしい。
「……悪いけどわたし、もうあんまりお腹は空いてないわ」
 ラティフィーネは、わざと不機嫌な調子で言い放った。
「半分はわたしが食べるから、あとの半分は買ってきた責任を持って、あんたが食べなさい」
「うん、わかった」
 素直に頷いて、ファルドはちょこんとラティフィーネの隣に座る。そして、腰帯に挿した折りたたみナイフを取り出すと、少々危なっかしい手つきで、赤い林檎を半分に切り分けた。
「半分こだね」
「そう、半分ずつよ」
 えへへ、とファルドは笑った。
 可愛いじゃないの、と思うラティフィーネは、しかし相変わらずの仏頂面のまま、ファルドの頭を掠る程度に撫でてやる。
 素直さも、半分ずつに出来たらいいのに、とラティフィーネはこっそり思う。
 またしても軽い自己嫌悪に陥りながら、彼女は林檎に噛みついた。



 翌日には、早くも赤毛の占師の噂を聞きつけ、ラティフィーネを訪ねてくる者があった。その翌日にはさらに客は増え、三日目には行列さえできた。
 宿としても、昼間は開店休業状態だった食堂に占い目当ての客がやってくるおかげで、そこそこの利益を出しているらしい。そういうこともあって、無事に仲直りをした宿屋の夫婦は、ラティフィーネとファルドに好意的だった。
 占いの依頼は、一番多いのが恋占いで、その次が探し物、商売繁盛の方法や、生まれてくる子供の性別、喧嘩の必勝法だとか、博打の当たり目といったものもある。遠方に住む家族の安否を気遣う若者や、亭主の浮気相手をつき止めたいと息巻く妻もいる。
 あまりにも深刻な内容の依頼がひとつも無いことが、ラティフィーネには幸運だった。荒んだ村などでは、露骨に誰かを呪詛したり、家族の病気を治す術を知りたいと願ったりする者が少なくないのだ。しかし、ラティフィーネは魔術師でもなければ医者でもない。誰かの人生をそのまま背負うような話を平静に受け止められるほど、老成してもいない。
 生活のために自分の能力を活用しているだけであって、慈善事業をするつもりもない。自身を奢ってもいないし、逆に蔑みもしていない。ただ、生きるための糧を得るには金が要る、それだけだ。
「次の人」
 淡々とした呼びかけに応じ、殊更ゆっくりとした動作でラティフィーネの前に座ったのは、同年代かやや年下らしい少女だった。
 甘い香水の香りが漂う。少々きつ過ぎるくらいだが、ラティフィーネは眉をひそめたくなるのを気力で我慢して、正面からその客を見据えた。
 肌は白く、頬はほんのり薔薇色で、青い目はぱっちりと大きい。さらに、巻き毛の蜂蜜色の髪には花模様の髪飾りをあしらっている。見たところ、今のラティフィーネとはまったく逆の世界の住人だった。
「本当は占いなんてあまり本気にしないのだけど、それでもちょっとは興味があるのよね。噂では、あなたの占いはよく当たるって聞いたから」
 予想に違わぬ甘ったるい口調で、少女は小首を傾げる。鼻の下を伸ばした男になら通用する仕草なのかもしれないが、ラティフィーネは同性の上に、こういう人種は苦手だった。
 おそらくどこかの金持ちの娘には違いない。どこから噂を聞きつけたのかは知らないが、わざわざこんな裏町にまで足を運ぶなど、よほどの暇人か遊び好きだろう――などと、平静を保った表情の下で、ラティフィーネは容赦なく毒づく。
「わたしにはね、四歳年上の婚約者がいるの。わたし達、きっと幸せになれると思うわ。でも一応、折角だから占ってもらおうと思って。ほら、自分でわかっていることでも、改めて占ってもらって幸せな結果が出たら、もっと幸せでしょ?」
「……つまり、恋占いっていうことね」
 さらに何か言いたそうな少女の言葉をそう結論づけて、ラティフィーネは水鏡に手をかざした。
 水面にぼんやりと、人影が浮かび上がる。
「ねえ、何がわかるの? どうやったら見えるの?」
「静かに」
 お黙り、と言いたいのを堪えて、ラティフィーネは神妙な顔を作った。
「あなたの恋は……もしかしたら、これから大きな局面を迎えるかもしれないわね」
「どういうこと?」
 少女は、露骨に眉をひそめる。
「……つまり……はっきり言ってしまうなら、あなた達の関係がとても崩れやすくなるってことよ。その男には近いうち、別に好きな人ができるかもしれないわ」
「まあ……なんですってっ?」
「慎重に婚約者と向き合うべきね。そうすれば離れかけた彼の気持ちも……」
「いい加減なことを言わないで!」
 突然、店内にヒステリックな声が響いた。
 周囲のざわめきが一瞬のうちに消滅し、そのすべての視線が二人に注がれる。
 唖然としたことに関しては、ラティフィーネも他の客達と同じだった。いかにもという可愛らしい素振りをかなぐり捨て、少女は言葉を吐き捨てる。
「流しの占師のくせに、客を喜ばせる術も知らないのっ? そんなでたらめを言って金を取るなんて、最低にも程があるわ!」
「……悪いけど、わたしの占いは客を喜ばせるための詭弁じゃないわ。信じる信じないは、あくまで自由だけど」
 愛想の欠片もない態度で応じながら、ラティフィーネはうんざりした。どこにでもいるのだ、こういう人種は。信じていないと最初に言っておきながら、気に食わない結果だと、突如として怒り狂う。
「じゃあ、わざわざこんな所まで出向いたわたしが馬鹿みたいじゃない。本当に、失礼な話だわ! もう二度と来ないわよ、こんな小汚い所」
 言いたいことだけ言って、少女は席を立つ。店の中の椅子が邪魔だと、今度はその周囲にいる客に当り散らしながら、そのまま外へ出て行った。
 ファルドが居たら、きっともっとうまい具合に相手を宥めてくれただろうと、ラティフィーネは少し、思わないわけでもない。まあ――どちらにしろ、ああいう客には深入りしないのが一番だというのが本音だが。
 そういえば、ファルドはそろそろ、買物を終えて戻ってくる頃だろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、ラティフィーネは長い赤毛を掻き上げる。
「……見ての通りだけど、それでも私わたしに占って欲しい人、いる?」
 成り行きを見守っている野次馬に、ラティフィーネはちらりと目をやり、問い掛けた。



 ファルドの毎日の過ごし方というと、昼間は本を読んだり、ラティフィーネに頼まれて買物に出掛けたりしていることが多い。占師の助手といっても、ファルドには占いの素質という決定的な部分が欠落しているために、もっぱら生活の雑務や、せいぜい客の案内くらいのことしかできないのだった。
 当初――旅を初めて間もない頃は、常にラティフィーネの顔色を覗っていたファルドだが、四年も経つ今となっては、彼女の性格にもすっかり慣れてしまっている。ラティフィーネは滅多に笑わないし、大抵不機嫌で無愛想だが、だからといってファルドを意味もなく叱ったり罵ったりすることはない。ファルドにはどうやら占師としての素質がないとわかったときも、励ますことはしない代わりに、無能だと詰ることもなかった。
「素質が無いものは仕方ないし、それはべつに、あんたのせいでもないわよ」
 ただ、そんなふうに言っただけで。
 そして夜、同じベッドで一緒に寝るときは、気が向いたら昔話を聞かせてくれたりもする。怖い夢を見たときは、手をつないだまま寝てくれたこともある。きちんとした読み書きを教えてくれたのも、ラティフィーネだった。
 ファルドにとって大事なことは、ラティフィーネを大好きだということで、もしも家族が居たらこんな感じだろうかと思える、唯一の存在だった。本当の家族のことを何ひとつ覚えていない十一歳の少年にとっては、それは何よりも大事なことなのだ。
「ええと、本屋さんはどこだろう?」
 往来の片隅で、ファルドはきょろきょろと辺りを見渡す。
 ラティフィーネに頼まれた買物は、占いの道具を包む新しい布と、彼女の好物の焼き菓子で、それは既に終えてしまっている。残りの買物は、ファルドの新しい本だけだ。
 荷物を脇に抱えたまま、ファルドは思い切って人通りの多い方の道へ歩き出した。宿の方向さえ見失わなければ、どこへ行ってもなんとか戻れる自信はある。
 荷馬車と土埃に注意しながら道を渡り、市場を通り過ぎていく。すると、石畳で舗装された白い街並みが視界に飛び込んできた。
「うわあ、すごいや」
 思わず歓声を上げたファルドの目の前を、立派な馬車が走り抜けていく。
 お金持ちの沢山住んでいるところだ、とファルドは思った。お金持ちというのはほとんどが悪人だと、ラティフィーネは言っている。けれどファルドは、そのお金持ちという人達に直接出会ったことがないから、本当のところはよくわからない。
 ファルドは少しだけ悩んで、それでも興味には勝てずに、通りを歩き始めた。最初は少し緊張したが、通りすがりの人達は恐ろしい顔をしているわけでもないし、着ている服が多少派手だということを除けば、市場と変わらない。それがわかってしまうと、ファルドは上機嫌になった。
「ラティも一緒だったら、もっと楽しかったのに……」
 綺麗な刺繍の入った布を売っている店や、変わった帽子を売っている店もある。それ等は市場のように店先に山積みにされているのではなく店内に整理して並べられていて、開いたままのドアからこっそり覗くか、店先に提げられた看板の文字を読むかしないと、何を売っている店なのかちっともわからないようになっている。
 本屋を探すことなどすっかり忘れてしまったファルドは、特別大きな店の前で立ち止まった。
 幾つもの綺麗な石が連なっている首飾りを見つけたのだ。ファルドには、それがどれくらい高価な物であるかなどわからない。ただなんとなく、とても高いのだろうと思うだけで。
 ファルドは、はっきりと覚えている。
 四年前、太った濁声の男にいつも苛められ、鞭で打たれていた頃、ラティフィーネがああいう重そうな首飾りの代わりに、ファルドを買ったのだ。――助けてくれたのだ、とファルドは思っている。たとえ、ラティフィーネにはそんなつもりはまったくなかったのだとしても。
「邪魔だ、どけ!」
「えっ?」
 じっと店の中を覗っているファルドの目の前が、不意に翳る。
「あ……うわっ」
 慌てて避けようとした瞬間、ファルドは突き飛ばされて、石畳の上に尻餅をついた。
「ご、ごめんなさい!」
「ここはガキの来るようなところじゃない。しかもお前……タークル人か。さては、どこかの奴隷じゃないだろうな。ええ?」
「ぼ、僕は……僕は、貿易商の両親と一緒にこの国に渡ってきて……」
「黙れ! お前がぶつかったせいで、俺のこの新品の服に手垢がついたじゃないか」
 ファルドの顔を覗き込んだのは、太った若い男だった。男はにやにやと笑いながら、ファルドの襟首を掴み上げる。
「ごめんなさい、あの……っ」
「貿易商とか言ったか? なら、親に頼んで金を持ってこいよ。そうしたら許してやってもいいぜ」
「そ、それは……今は旅の途中だから……」
「なんだ? 金が無いっていうのか? だったら……そうだな、俺が奴隷として買ってやってもいいぞ」
 その台詞に、ファルドは目を見開いた。
 ――怖い。怖くて声が出ない。
 この男の嬉しそうな目つきは、奴隷商の男が鞭を振るったときと、あまりにもそっくりだったのだ。お前達は家畜と同じだからちゃんと調教しないと駄目なんだ、と笑って、鞭を振り下ろしていたあの男と。
「知っているか? 奴隷はな、肩のところに牛みたいに焼鏝を押されるんだ。お前のこの肩にも、熱い鉄を当ててやろうか?」
 熱い熱い鉄。
 皮膚が焼ける臭い。
 傷が疼いて、何日も眠れない夜が続く。
 中には、そのまま発熱して死んでしまう子もいた。
 ――ファルドは。
 死んでしまった子が、最期に「おかあさん」と呟いたのを聞いていた。
 その子の身体を、太った濁声の男がどこかに捨ててしまうのを見ていた。
「……あ……」
 逃げなくてはいけない、と思った。
 逃げなくては。
 早く、ラティのところに戻らなければ――と。
「痛えっ!」
 気がつくと、ファルドは目の前の毛むくじゃらの手に噛みついていた。情けない声を上げて、男はファルドの襟首を掴んでいた手を放す。
「このガキ! 何をしやがるっ!?」
 激昂した男は、咄嗟に逃げようとしたファルドの右腕を掴み――損ねて、シャツの袖を掴んだ。そのまま、あまりにも強い力で引かれて、ファルドは再び転倒する。
 同時に、ビリビリッ、と乾いた音がした。
 シャツの袖が破れたのだ。
 しまった、とファルドは思った。もう駄目だ、と目を瞑る。
 その――次の瞬間。
 ファルドは男の情けない声を聞き、そして水飛沫を全身に浴びていた。
「ああ、申し訳ないね」
 ちっとも申し訳なさそうでない調子で、その声の主は謝罪する。ファルドが恐る恐る目を開けると、そこには別の青年が立っていた。細身でどちらかというと背の高い、金髪の男だ。
「店先であんまりうるさいものだから、裏町から豚が逃げ出して騒いでいるのかと思ったよ」
「な、なな、にを……っ」
 ファルドよりもびしょ濡れで頭から水滴を垂らしている男は、自分のことを豚呼ばわりした青年を睨みつけ、顔を真っ赤にして両拳を震わせている。
 後から現れた青年のほうが、この太った男よりも上位にあるのだということを、ファルドは瞬時に見抜いた。
「服なら新しいものを、きみの家に届けさせよう。この非礼は詫びなくてはいけないからね。ついでに、きみがまた僕の所に借金の相談に来て断られたってことを、きみのお父さんにお話してあげようか? たしかきみ、次に問題を起こしたら勘当されるって言っていなかったかい?」
 とても楽しい計画を口にするかのように、青年はにっこりと笑う。
「そ、それは……」
 赤い顔を蒼白に変えて、男は口の中で何やら言い訳めいたことを口にする。やがて、うやむやな台詞を言い残し、体格からは想像できない素早さでその場を立ち去っていった。
「金持ちの馬鹿息子っていうのは、さらなる金持ちには頭が上がらない。典型的なろくでなしって奴だ。見ていて憐れだよ」
 木桶を抱えたまま、青年はひとつ溜息をついてから、ファルドを見た。
「おやおや、きみも随分濡れてしまったものだね」
 自分でやっておいて、他人事のような言い種である。
 しかし、呆然としているファルドに、彼は優雅に手招きしてみせた。
「おいで、お詫びにお茶に招待するよ。服を乾かさないと、家には帰れないだろう? 袖もほとんど取れかかっているから、縫ってあげよう」
 その言葉に、ファルドはぎくりとした。
 右肩の袖が取れかかっていて、そこからは火傷の跡がはっきりと見えたのだ。意図的に記された――奴隷であることを示す、焼印の跡が。
 ファルドには、ラティフィーネにきつく約束させられていることが、ふたつだけある。それは、もしもタークル人であることを訊かれたときには必ず、貿易の仕事をしている両親と一緒にこちらの国に渡ってきたと答えるということ、そして何よりも、絶対にその火傷の跡を誰かに見られてはいけないということだった。
「ほら、おいでよ。きみのご両親に告げ口なんてしないからさ」
 青年は、気づいていないようだった。
 ファルドには、こういうときにどうしたらいいかなど、わからない。とりあえず、石畳の上に放り出してしまった荷物を拾い上げ、逃げるべきか従うべきかと逡巡する。
 青年はドアの前で振り返り、もう一度小さく溜息をついてから、ファルドのところに戻ってきた。
「……次に嘘を吐くときは、もっと上手なものを選ぶべきだね」
 彼は身体を屈めて、ファルドの耳元で囁いた。
「さっきの馬鹿息子はともかく、両親が貿易商だなんていうのは、この都ではあまり通じないと思うよ」
「……え……」
 全身を緊張させて、ファルドは青年の顔を見る。
「まあ、そういうわけだ。そのうえで僕は、きみをお茶に招待しようと言っているんだけどね。断る理由なんて、きみにある?」
 青年は少々脅迫めいた言葉を口にして、にこやかに笑う。
 背中を押されたファルドは、結局その誘いを断ることができずに、足を踏み出したのだった。


<―― BACK   NEXT ――>

本作品の扉 / 創作(オリジナル)
トップページ
inserted by FC2 system