遥かなる幸福の都
<第二章>
 ファルドが案内されたのは、立派な――ファルドとラティフィーネが泊まっている宿に比べたら随分立派な部屋だった。靴の裏が埋もれてしまうほど毛先の長い絨毯に真っ白な壁、額に入った絵や花瓶なども飾られている。出窓はふたつもあって、部屋の中央にある丸テーブルの側面には、細かい模様が施されていた。
 青年の名前は、ルカートというらしい。彼は、宝石や装飾品を取り扱うこの店の息子なのだと自己紹介した。
 ファルドが勧められたのは、座ったこともないような柔らかい椅子だった。わけのわからないうちにシャツを脱がされ、代わりに肩掛けを渡される。
「すぐ終わるから、とりあえずそれでも羽織っているといい」
 ルカートはそう言うと、戸棚から小さな箱を取り出した。何を始めるのかと思えば、彼は自ら針と糸を取り出して、取れかけた袖を縫い始めたのだ。
 ラティフィーネよりもずっと上手だな、とファルドは思ったが、そんなことをわざわざ口にするのも気が引けて、目の前のティーカップを両手でそっと持ち上げる。
 紅茶も、彼が手ずからいれたものだった。
「やけに簡単に袖が取れたものだと思ったら……これは、誰かが前に一度、同じ所を縫っているね? それもあまり上手じゃない」
「そ、それはラティが……ええと……でも、お裁縫はあまり上手じゃないけど、他のことはとても上手なんだよ」
「その人は、きみのご主人様?」
「よくわからない」
 正直に、ファルドは答えた。
「ラティは、そういう呼び方は嫌いだって言うから。僕は、助手なんだって。ええと……ラティは占師で、すごくよく当たるんだよ。僕はそのお手伝いをしていて、ずっと旅をしているの」
「へえ」
 ルカートは視線を上げずに手を動かしながら、小さく笑った。
「それできみは、お使いか何かの途中だったわけだ。その途中でつい、こっちの通りまで出てきてしまったというわけだね」
「……本屋さんを探していて。僕の新しい本、ラティが買ってもいいって言ってくれたから」
「きみは字も読めるのかい? ――いや、まあ、それはともかくとして。きみに忠告をしてあげるよ。この都には、まだ慣れていないみたいだからね」
 手を止めて、ルカートは自分のティーカップに手を伸ばす。それを一口味わってから、彼はファルドのほうを見た。
「この都はね、表町と裏町と呼ばれる地区に分かれているんだよ。ファルド君はきっと裏町に宿を取っているんだろうけど、そこはこの辺りと比べると、雰囲気が違うはずだ。裏町は庶民の……というか、一般の人達が住む所。表町というのはこの石畳の敷かれた地区のことを言うんだけれど、ここは業突張りの金持ち集団の居住区さ。そして、表町の人間は一般的にきみみたいな……はっきり言わせてもらえば奴隷出身者に、とても差別的なんだよ。つまり、きみがこの辺りを無用心に出歩いていると、さっきみたいに苛められることは避けられないっていうことだ」
「……僕が悪いことをしなくても、苛められるの?」
「悪いことをしていなくても意地悪することを、苛めるって言うんだよ。ついでに言うと、意地悪は僕の趣味のひとつでもあるんだけど。でもきみは幸運だね、ファルド君。たまたま今、僕の意地悪の虫は治まっているらしいから」
 ルカートは笑い、再び視線を落として手元を動かし始めた。
 ファルドは安心したらいいのか怖がったらいいのかわからなくて、思わず考え込んでしまう。ただ、このルカートという青年はラティフィーネと同じで、金持ちという人種が嫌いみたいだ、ということはわかった。彼自身もその一員であるはずなのに――と思わないわけでもなかったが、ファルドは黙って紅茶を飲む。
「そういえば、きみは本が好きなのかい?」
「うん、好きだよ。まだあんまり難しいのは読めないけど」
 ファルドが答えると、ルカートはちらりと顔を上げて、部屋の壁を指差した。
「あの本棚の一番下の列は、もう何年も前に読んでしまった物ばかりなんだ。きみが読めるようなものがあれば、持っていくといいよ」
「本当に?」
 どうせもう読まないから、という返答を最後まで聞かないうちに、ファルドは本棚に駆け寄った。実は、気になっていたのだ。
「すごいね、本屋さんでもないのにこんなにいっぱい」
「読書家を自称する連中と比べたら、僕の本なんてちっとも多くないんだけどね」
 ルカートは苦笑したが、ファルドにとっては、十冊以上の本は全部「いっぱい」に分類されてしまうのである。なぜなら、ファルドが大事に持っている本は、いまのところたったの一冊しかなかったのだから。
「すごいね、すごいねえ」
 どの本も背表紙がしゃんとしていて、ファルドにはちょっと簡単には触れないような感じさえした。両手をズボンでよく拭いてから、一冊の本にそっと手を伸ばす。開いてみると、びっしりと綺麗な文字が並んでいて、意味もよくわからないのに嬉しくなった。



「ルカートったら、ちょっと聞いて!」
 若い女の声が部屋に乱入してきたのは、袖を付け終えたシャツを受け取り、ファルドが大喜びでルカートにお礼を言ったときのことだった。ファルドは大慌てで、両方の袖に腕を通す。
「どうしたんだい、エルミナ」
 ルカートも少しだけ驚いた様子で、乱入者を見る。
「悪いけどごらんの通り、今は来客中だよ。急ぎの用でなければ、後にしてもらえないか」
「……何? その子」
「ちょっとした経緯があってね。この子のシャツが破れてしまったんで、僕の裁縫の技を披露していたところさ」
 ファルドはその間にボタンを留め、そうして初めて新しい客を見た。
 それは、ラティフィーネと同じくらいには年上の、女の人だった。ふわふわの金髪で、肌の色が白く、甘い匂いがする。ファルドはその人を綺麗だとは思ったものの、なんだか怒っているような顔をしているので、どうしたものかと思う。
「こ、こんにちは」
 とにかく挨拶をすると、その女の人――エルミナは、じっとこちらを見て、何事も無かったかのようにルカートに歩み寄った。
「聞いてルカート。とっても最悪なの」
「……きみ、何か面白い噂を聞いたから出掛けるって言っていなかったかい?」
「そうよ。とてもよく当たる占師っていう噂を聞いたから、わざわざ出掛けてきたの。だって、わたし達の将来について、とても興味があったんですもの」
「それで? その様子だと、あまり嬉しい結果ではなかったようだけど」
 ルカートはエルミナのために椅子を引き、彼女を座らせてから尋ねる。
 ファルドは身の置き場がなくて、ただ黙って立ち尽くすしかない。
「言うに事欠いて、わたし達の関係が危ういだなんて言ったのよ、あの占師。婚約までしているわたし達に、そんなことあり得る? あなたに別に好きな人ができるかもしれない、なんて。ねえルカート、そんなことないでしょう? あり得ないでしょう?」
「まあ……今のところ、僕には思い当たるような人はいないね」
「ほら、やっぱり。あの女、次に会ったら許さないんだから。長い赤い髪の女でね、歳はわたしと同じくらいだったわ。ちょっと美人だからって、客に、それもこのわたしに、いい加減なことを言うなんて!」
 エルミナは一気にそこまで言うと、ふと思いついたように、甘い笑みを浮かべる。
「お父様に言いつけて、この都から追い出してやるのもいい考えね」
「まあ、程々にすることだね、エルミナ。占いなんて、当たるかどうかよりも占ってもらう行為そのものを楽しむものさ」
「……あのっ」
 黙って立っているしかできなかったファルドは、思いきって声を出した。意図したよりも大声になってしまって自分で驚いたが、エルミナの言う赤い髪の占師がラティフィーネのことだと思ったら、黙っていられなくなってしまったのだ。
「ああファルド君、ごめんよ。きみを忘れるところだった」
「ラティは、いい加減なことなんか言わないです。ラティの占いは、とてもよく当たるんだ」
「え? ――きみが助手をしているのは、もしかしてその占師なのかい?」
「ラティは、嘘なんか言わないよ。確かにちょっと、お客さんに対して優しくないときもあるけど……でも、ちゃんと解決法だって教えてくれるし。やっとこの都に着いたのに、追い出されたりしたら、困る……」
「ちょっと!」
 ガタン、と音がして、エルミナが椅子から立ち上がった。
「これはどういうことっ? あなた、あの占師の知り合いなの?」
「あ……ぼ、僕は、助手をしていて……」
 剣幕に驚いて、ファルドは思わず後ずさる。
「助手……ね」
 エルミナは繰り返し、そして、はんと鼻で笑った。
「ご大層に助手なんて名目をつけたら、奴隷風情がこうして大きな口が叩けるってわけね。主人がいい加減なら、その奴隷は口の聞き方も知らないんだわ」
「よさないか、エルミナ」
「いいえ、ルカート。あなたがこんな子供を部屋にまで上げて高いお茶を振舞うのは、わたし、目を瞑って差し上げてよ。でも、奴隷のくせにわたしに意見するなんて、許されることではないわ」
「タークル人だからって奴隷呼ばわりして敵視するのは、昔の悪い風習だよ。――ファルド君、きみはもうお帰り」
 ルカートはそう言って、ファルドを促した。
 婚約者が少年に味方したことが癪に障ったエルミナは、憤然と目を吊り上げる。
「奴隷は奴隷だわ。人の姿をした家畜じゃないの! ええそう、牛や馬のほうが口答えしないだけ賢いってものよ。奴隷にはわたし達のような階級の人間に、対等に口をきく権利なんてないのよ。同じものを食べることも、同じ場所で寝ることも、許されないんだから!」
「……でもっ、でも、ラティは……僕とおやつを半分こするし、一緒に寝るし……字も教えてくれるし……」
「うるさいわねっ!」
 パンっと乾いた音がして、ファルドは左頬に痛みを覚えた。
「なんて生意気なの! 奴隷の教育がなっていないのは、その飼い主に問題がある証拠よ! 自分の奴隷も教育できない恥晒しの占師なんて、すぐにこの都から追い出してやるわ!」
「……っ」
 ファルドには、綺麗だと思っていたエルミナが太った男に見えた。ルカートに水を掛けられた男だ。そしてそれは、鞭を振るって嬉しそうに笑っていた男と、重なる。
 頬の痛みがジンジンと響いて、どうしようもなく悲しくなった。
 ファルドは、自分がいわゆる奴隷とは違うということを、なんとなくわかっている。奴隷商の男に散々聞かされていた奴隷としての生活と、ラティフィーネと出会ってからの生活が、あまりにも違っていたからだ。けれど、こんなにあからさまに、しかも一日に何度もそれを思い知らされたことはない。
 ラティフィーネは、ファルドを奴隷だと呼んだことは、ただの一度もなかった。不機嫌なときに多少八つ当たりをすることはあっても、有無を言わさず殴るようなことはしない。当然のように用事を言いつけるが、それはラティフィーネには占師という仕事があるからで、ファルドはその手伝いをするのが仕事だからだ。
 ――だから。
 だからいつのまにか、ファルドは自分が何であるかということを、忘れていたのかもしれなかった。
「……ごめんなさい」
 ファルドは、涙を堪えて謝罪した。
「でも……ラティは……悪くないです。僕が……ちゃんとしていないから……」
「ファルド君」
「僕……帰ります。シャツ、直してくれてありがとうございました」
 ファルドはテーブルの上の荷物を取ると、そのまま二人の顔を見ることもできずに、部屋を出た。
 店の中を走り抜けて外に出る。そうして、一度も振り向かずに駆け出した。
 悲しくて――。
 ただただ、ファルドは悲しかった。



 少年の出て行った部屋には、彼が本棚から選んだ本と、飲み切れなかった紅茶が残された。
「ねえルカート、わたしにも紅茶をいれてちょうだいな」
 それまでの不機嫌が嘘のように、エルミナがにっこりと微笑んだ。
 ルカートは言われるまま、婚約者の少女のために、新しい紅茶をいれ直す。
「気分の悪いことは、忘れてしまうにかぎるわ。わたし、あなたとこうしているだけで、とても気分がよくなるのよ」
 可愛らしく小首を傾げ、華やかな笑みを刻み、甘えたようにエルミナは言う。彼女にとっては、少年を酷く傷つけたことなどどうでもいいことなのだった。気に掛ける程の問題ですらないのだろう。
「どうぞ、お嬢さん」
 いつものように笑みを浮かべ、ルカートはエルミナの前にカップを置いた。そして、そのままの調子で続ける。
「そしてこれは、僕がきみのために用意する最後のお茶だよ」
「それってどういう意味?」
 新しい冗談を期待しているかのように、エルミナは大きな青い瞳を輝かせる。
「きみとの婚約は、今日限りで破棄するということさ」
「――え?」
「つまり、きみが腹を立てていた占いの結果は、完全に間違ってはいなかったってこと。僕達の関係が崩れるという、その点ではね」
「もう、嫌だわルカートったら。そんな悪質な冗談を言って、わたしを驚かせるつもり?」
 あくまで冗談として受け取ったエルミナは、真剣に取り合うつもりはないようだった。可愛らしく唇を突き出して、拗ねたような素振りを見せる。
 ルカートは、小さく溜息をついた。
「僕はね、きみのその我侭なところも、自分にとても正直なところも、嫌いじゃなかったんだ。きみはとても美人だし、卑屈な人間よりも自尊心が高いくらいのほうが、僕には好感が持てたしね」
 過去形で話すルカートは、単調に言葉を続ける。
「都で最も力ある議員の娘として何不自由なく育ったきみは、当然のように僕と婚約した。でもそれは僕達の意志というより、力はあるが金がかかる議員と、金はあるが権力の薄い宝石商が、手に手を取って暗躍しようとする企みだということに気づかないほど、きみは愚かではないはずだよ」
「ルカートったら、突然なにを言い出すの? それは……それは確かに、お父様同士ではそういうこともあるかもしれないけれど、でも、わたしとあなたの間には、ちゃんとした恋人同士の関係があるじゃない。そうでしょう?」
「……せいぜい、お子様なキスを交わす程度の関係がね」
 その台詞に、さすがのエルミナも瞬時に青褪めた。ルカートが決して冗談を言っていたのではないと、これで理解したのだろう。
「断言するよ、エルミナ。きみは、僕がこの家の息子じゃなかったら、僕を好きになったりしなかった。きみは、僕が将来手に入れるこの店と宝石達を好きになったのだからね。まあ、僕だってきみと結婚すれば議員になれたかもしれないんだから……きっと、お互い様なんだろうけど」
「……ルカート……」
 エルミナは唇を小刻みに震わせながら、歪んだ笑みを浮かべる。
「だから……だからどうだっていうの? いいじゃない、お互い様でも。わたしは、それでも構わないわ……」
「じゃあ、もっとはっきり言おう」
 ルカートは、冷やかにさえ聞こえるように、突き放した言い方をした。
「今の僕には、きみの我侭が傲慢に見えるし、自分に正直なところが頭の悪い女に見える。つまり僕は、きみとこれ以上婚約者としての関係を続けることが苦痛になったということだよ」
「そんなの……認めないわ。わたし、絶対に認めないわ!」
 声を震わせて、エルミナは叫んだ。
 ルカートは、それ以上彼女の相手をすることはなかった。言い過ぎたかもしれないとは思ったが、後悔はしなかった。
 やがてエルミナは部屋を飛び出していき、ルカートは独りになった。
 少年が残していった本を手に取って、鳶色の瞳をわずかに細める。冷めた視線は、やがて窓の外へと向けられた。
「――まったく」
 静まり返った部屋の中、低い呟きだけが響く。
「奴隷奴隷って……うるさいんだよ、この町は」


* * * * *


 ファルドの様子がおかしい。
 どことなくよそよそしいばかりか、食欲もないようだ。そして寝るときは、床で毛布に包まっている。
 ラティフィーネが理由を訊ねても、答えない。
 反抗期かというと、どうやらそういうものとも違うように思える。
「あんた、何が気に食わないの? わたし、あんたを怒らせるようなことした? この店の食事がまずいって思ってるの? それとも、あたしの寝相の悪さを暗に非難してるわけ? 言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ!」
 いい加減腹が立って、そんな風に問い詰めたのは今朝のことだった。
 ファルドは、やはり答えなかった。とても悲しそうな顔をしただけで。
 ベッドの上にうつ伏せて、ラティフィーネは苛々と爪を噛む。
 まるで、何かを押し殺したような――もしかしたら諦めたような、悲しい目だった。遠慮をして言いたいことを我慢している様子とは違い、そのときのファルドの目は、四年前に薄汚い格好で売られていたときと同じようだと思った。そんな顔をさせているのがこの自分自身なのだと思ったら、苛立ちと後悔とで、いよいよ情けなくなってくる。
 今日は、とても仕事などする気が起きない。こんなときに占いをしても、集中できるはずもなく、ラティフィーネは朝から客をすべて断って、さっさと部屋に引きこもっていた。
 占師というのは厄介な商売なのだ。その日の精神状態で能力の幅が左右されるうえに、雑念が多いとまともな予見などできなくなってしまう。こんな日はその最悪な事例というやつで、結果、いつも以上の自己嫌悪に悶々とする羽目になる。
 ファルドは、市場へ出掛けてしまった。ラティフィーネがとくに買物を頼んだわけではなく、単に居場所がなかったのだろう。
「なんなのよ、もう」
 こんなことは初めてで、ラティフィーネには何がなんだかさっぱりわからないのだ。
 具体的にファルドの様子がおかしくなったのは、ちょうど三日前にお遣いから帰ってきたときからだった。
 いつもと比べると随分遅くに戻ってきたファルドは、とても元気がなく、声も小さく、笑顔もなかった。気づいたことは、ファルドのシャツのボタンが、出て行ったときと違って掛け違いになっていたということだ。そして、頼んでいた焼き菓子は砕けて散々たる状態、占いの道具を包む新しい布はよれよれの状態だった。
 誰かに苛められたのかと訊くと、ファルドは首を横に振った。喧嘩をしたのかと訊くと、それも違うと言う。ファルドは転んだのだと言って譲らず、そしてうまく買物ができなかったことを謝ったのだ。
 ラティフィーネはその時、それ以上のことを訊くことができなかった。放っておけば翌日にはもとのファルドに戻っているかもしれないという期待も、そのときにはあったのだ。
「でも……うなされていたわよね」
 ファルドが夢でうなされるのは、今に始まったことではない。最初に出会った頃は、ほとんど毎晩のことだった。それが徐々に少なくなり、今ではほとんどなくなっていたのだ。それなのに、ここ二日ばかり、立て続けにファルドは昔と同じ悪夢に襲われている。
 夢の内容を、目が覚めたときのファルドはほとんど覚えていない。しかしラティフィーネは、ファルドがうなされながら両親を呼ぶ声を、何度も聞いている。現実には、ファルドは奴隷商に売られる前のことを記憶していないというのに。
 それは、幼いファルドが両親から引き離された、かすかな――普段は忘れている記憶なのかもしれなかった。
「……迎えにいこう」
 それだけははっきりと、ラティフィーネは決意した。
 ファルドを迎えにいって、今度こそ何があったのかを聞き出すのだ。いや、聞き出せなくてもいいから、ちゃんとファルドを連れて帰ろうと思った。
 さっそく部屋を出たラティフィーネは、主人に、ここから一番近い市場の場所を聞いた。ファルドはきっと、そこにいるだろう。
 土埃が舞う乾いた空気とまだ高い日差しを少しだけ恨めしく思いながら、ラティフィーネは市場に向って歩きだした。



 表町と比べて裏町と呼ばれるこの辺りは、何もかもが雑多に見える。しかし、こういう整然としない自由さを、ルカートは嫌いではなかった。
 目的としているのは、裏町の中でも最も人通りの多い道から一本奥に入った所にあるという、小さな宿屋である。赤い髪の占師は、そこにいるというのだ。
 ルカートは占いに興味があるわけではない。数日前に出会った少年を、探していたのだった。
 その宿は、すぐに見つかった。しかし、主人の話によれば、今日は占いをしていないのだという。ファルドという少年のことを訊ねると、朝から外出しているということだった。
「そういえば、ラティフィーネさん……占師の彼女もついさっき、出掛けたところで」
 主人は、申し訳ありませんね、と愛想笑いを浮かべる。
「伝言がおありでしたら、うかがっておきますが」
「いや……いいんだ。たいしたことではないから」
 ルカートは申し出を断って、外に出た。
 一気に、脱力感に襲われる。
「……何をやっているのだか」
 子供一人のためにわざわざ出向いている自分が、急に馬鹿馬鹿しく思えたのだ。
 ルカートは右手に、本を抱いていた。ファルドが忘れて――あるいは手を出せずに、部屋に残して行ったものだ。それを届けてやろうと思ったのだから、ルカートは我ながら、自分自身の行動に呆れてしまう。
「帰るとするか」
 呟いて、ルカートは歩き始めた。
 そもそも、忘れ物に用があるならその本人が受け取りに出向くべきだ。いくら暇だからといえ、こんな行為はまったくもって自分らしくない。
 当の少年の姿を発見したのは、そんなことを考えながら通りを横切ったときだった。
「あ――」
 広くはない道である。通りの反対側からこちらに向かって歩いていたファルドも、ルカートに気がついたらしく、その途端、目に見えるほど動揺した。
「ファルド君、ちょうど良かったよ。きみに……」
 本を届けに来た、とは最後まで言えなかった。なぜなら、ファルドが顔を強張らせたまま背を向け、来た道を逃げるように走り去っていってしまったからだ。
「……やれやれ。僕は、かけっこはあまり得意じゃないんだけどね」
 言いながら、ルカートはその後を追う。
 走りながら、追いかけてまで何をしようとしているのかと疑問に思う。そうまでする価値がどこにあるのかと、そう思いながらも、どういうわけかむきになっている自分を、ルカートは自覚していた。
 子供と青年とでは、そもそも体格からして違う。追いつくまでに時間はかからなかった。しかし、ファルドの逃げた方向はどうやら市場の一角だったらしく、人の往来は激しく、路地も入り組んでいる。
「逃げるなって」
 ようやくファルドの腕を掴むと、ルカートはその腕を引きながら、道の脇へ連れて行った。
「きみが逃げ出すから、僕が追う羽目になったじゃないか」
 悪意があったわけでもないその台詞に、ファルドはびくりと肩を震わせる。その様子はあまりにも数日前とは違っていて、ルカートは次の言葉を失った。
 怯えているのだとわかったのだ。だから、なるべく優しく聞こえるように言葉を選ぶ。
「ファルド君、僕はきみに本を届けようと思って来たんだよ。ほら、きみがこの本なら読めそうだって言っていただろう、だから……」
 ありがとう、と。この少年なら笑顔でそう言うだろうと、ルカートは思っていた。
 しかし、ファルドは小さく首を振った。
「なんだ、いらないのかい?」
 残念だな、とルカートは吐息する。その直後、彼は背後から怒りに満ちた声を聞いた。
「ちょっとあんた!」
 それが自分に対するものだとルカートが理解するより早く、ファルドとの間に若い女性が割り込んできた。
「ラティっ」
 それまで一言も口を利かなかったファルドが短く声を上げて、彼女の腰の辺りにしがみつく。
「わかったわ、あんたがファルドを苛めていたのねっ?」
「……え?」
「大の男がこんな子を苛めて、恥かしいとは思わないの!?」
 両手を腰に当て、初対面の男を真正面から睨みつけるこの人物が、ファルドが助手をしているという占師に違いないと、ルカートは判断した。
 腰まで伸びた彼女の髪は、噂に聞いた以上に鮮やかな赤だった。駆け寄ってきたらしい彼女が整わない呼吸を繰り返す度、金環の耳飾りが赤い髪の中で揺れる。一見冷ややかな色をした薄い蒼色の瞳は眼光鋭く、怒りの蒼い炎で燃えてしまいそうな勢いだ。
「あんたがどこのお坊ちゃまか何だか知らないけれど、この子に命令していいのも、泣かせていいのも、このわたしだけなのよ! いいこと!? 今度ファルドに近づいてごらんなさいっ。あんたに一生解けない呪いを掛けてやるわ!」
 一気に捲くし立てるラティフィーネの剣幕に、周囲の通行人達の足が止まる。野次馬の輪も、そろそろできあがりつつある。
「お嬢さん」
 笑みを浮かべて、ルカートは呼びかけた。
「きみって随分変わった人だね。この間、ファルド君から話を聞いたときからそう思っていたけれど。なんだか気が合いそうでほっとしたよ」
「あんた、頭がおかしいんじゃないのっ?」
「多分ね。僕は生まれたときからどうかしているんだ」
 本格的に笑いだして、ルカートは本を見せた。
「これ、ファルド君にあげようと思って持ってきたんだ。この間は持って帰り損ねたみたいだったから。まあ……どうやら僕は、随分と嫌われてしまったみたいだけどね」
 ちらりとラティフィーネの腰の辺りに視線を落とすと、ファルドが慌てて目を逸らす。
「ファルド君とは、僕の家の前で出会ったんだ。そのときに……まあ、運悪く性質の悪い馬鹿息子にぶつかって転んだのがファルド君、ついつい手が滑って、その馬鹿息子に水をぶっ掛けたのがこの僕」
「なによ、それ。どういうこと?」
「僕が強引に、ファルド君を家に上げたんだ。そこで……僕の元婚約者が、ファルド君に酷いことを、ね。君の占いで婚約者との関係が危ういと言われて、彼女、酷く腹を立てていてね。度を越した腹いせってやつだったんだ」
「まさか……あの甘ったるい、香水臭い女!」
 どうやら占師のほうも、印象的な客は記憶しているものらしい。
 ルカートは、ラティフィーネの後ろからこっそりこちらを覗っているファルドの身長に合わせて、腰を屈めた。
「ねえファルド君。きみが僕を嫌いになるのは仕方のないことかもしれないけれど、きみがきみ自身を嫌いになる必要なんて、どこにもないんだよ」
「あんた……ファルドを苛めていたんじゃないの?」
「少なくとも、僕にはそのつもりはなかったんだけどね」
 ルカートは半ば強引にファルドに本を手渡して、そのまま背を向けた。
 正直、当てが外れた気分だった。しかし、それも仕方がない。所詮、他人に自分の思い通りの反応を期待するほうが間違いだと、思い直す。
「……あ、あのっ……待って」
 呼び止める声は、少年のものだった。
「本……どうもありがとう。あと、それから……逃げたりして、ごめんなさい」
 駆け寄ってきたファルドは、少々気まずそうな顔をしながらも、はっきりとお礼と謝罪を口にする。
「きみは、とってもお行儀がいいね。そういう子を、僕は嫌いじゃないんだ」
 ルカートがそう言うと、ファルドは嬉しそうに、そして照れくさそうに笑った。
「わたし、ラティフィーネっていうの。あなたのこと誤解していたみたい、謝るわ」
「きみみたいな美人に頭ごなしに叱られるのも、たまには刺激的だね。僕はルカート、表町の装飾店の馬鹿息子さ」
 ルカートはそう言い残すと、今度こそ、その場から立ち去った。
 久しぶりに楽しい気分だった。妙に安堵している自分にも、気づく。
 あの二人とはもう少し親しくなってみてもいいかもしれないと、珍しくもそんなことを思いながら、帰路に着いたのだった。



 その日の夕食には、ラティフィーネはテーブルいっぱいの料理を注文した。ルカートが帰ってから、ファルドはいつもの調子を取り戻し、それから数日前に起こったことを打ち明けたのだ。
 ファルドは、奴隷になろうと努力していた。家畜と同じだと言われた奴隷に自分からなろうとして、食事もろくにせず、ベッドで眠らず、それでいて従順であろうとしていたのだ。
 ラティフィーネに言わせれば、無駄で無謀で馬鹿馬鹿しいかぎりの努力だったが、しかし彼女は、それを口にすることはできなかった。ファルドがなぜそんなことをしたのか、わからないほど鈍くはなかったからだ。
 自分のせいで都を追い出されるわけにはいかないと、ファルドはきっとそんなふうに思ったに違いないのだった。追い出したければそうすればいい、と思うラティフィーネほどに、ファルドは図太い神経と捻くれた性格の持ち主ではない。
「スープの一滴だって残したら、容赦しないんだから! それを食べたら、今日はもう、さっさと寝てしまいなさい。いいこと? 床で寝ていたりしたら、お尻を引っ叩くわよ!」
 ファルドは何度も頷いて、それから大急ぎでスープ皿とパンに手を伸ばす。
「ちゃんと野菜も食べるのよ、しっかり噛んで。ほら、口の横にパンくずが付いてるわ」
 まるで神経質な母親のように、ラティフィーネはあれこれ口を挟みながら、自分の目の前の料理に手をつける。
 ファルドは口と手を動かし、ほとんど目を白黒させながらも、せっせと食事を進めている。ラティフィーネが本気で怒っていると思ったのか、余程空腹だったのか。おそらく両方なのだろうが、それでは味もよくわかるまい。
「あんたって……素直っていう意味では可愛いけど、単純っていう意味では最高にお馬鹿ね」
 呆れながら、ラティフィーネはしみじみと目の前の少年を見つめた。その目が珍しく優しく、穏やかであることに、彼女自身は気づいていなかったが。
「ラティ」
 口の中のものを飲み込んで、ファルドが上目遣いに呼びかける。
「……あの、ね」
「なによ?」
「僕、ラティが一緒で良かったよ」
「そんなの、今更でしょ」
 鼻を鳴らして、ラティフィーネはそっぽを向いた。
「あんたはわたしの助手なのよ。あたしがそうと決めたらそうなんだから。奴隷みたいな真似されると気分が悪いったらないわ。こんな馬鹿らしいこと、二度として欲しくないわね!」
 ラティフィーネは言いながら、テーブルの端に乗せていた果物を手に取った。この都に来た初めての日にファルドが買ってきてくれたのと同じ、真っ赤な林檎だ。あのとき、ファルドがあんまり美味しそうに食べたから、ラティフィーネはファルドを探している昼間の間に、ひとつだけ買っていたのだった。
「半分ずつよ」
「半分こ?」
「それ、全部食べ終わってからね」
 ファルドは笑った。とても、嬉しそうに。
 笑いながら、ファルドはシャツの袖でごしごしと、目元を拭う。間に合わなかった透明な雫がひとつ、スープの中に落ちた。
 馬鹿ね、と声には出さずに、ラティフィーネは呟く。
 あの、ルカートという青年の言うことは正しい。ファルドが自分自身を嫌う必要はどこにもないのだ。こんなふうに泣く必要もない。
 ――幸福の都。
 本当にそんなものがあるのなら、とラティフィーネは思う。
 きっとそこでは、誰もがささやかな幸せを共有し、笑っていられるのだろう。そして誰も、ファルドのような悲しい想いはしなくて済むに違いない。
 いつか本当に辿り着けるならいい、とラティフィーネは心から願った。


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