遥かなる幸福の都
<第八章>
 霧雨は午後から本格的な雨に転じ、日が暮れる頃にはさらに雨足は強くなった。
 当然、ルカートが夕食を終え、自室で読書に勤しんでいるような時間帯ともなれば、外には真っ暗な帳が下りている。少々強まった雨音も耳に心地好く、手ずからいれた紅茶の香りも、夜ならではのしっとりした安らぎの演出だ。煙草を好まず酒も嗜む程度にしか口にしない自称馬鹿息子にとっては、紅茶も道楽のひとつなのだった。
 時折、窓ガラスを雨が打つ。風も強くなってきたらしい。
 きりのいいところまで手元の本に視線を走らせてから、ルカートは椅子から立ち上がった。わざとカーテンを開けたままにしておいた窓には鏡のように部屋の中がそのまま映り込んでいて、薄っすら浮かぶ暗い夜の街並みと重なり合っている。
「今宵はさすがに月影もなし、か」
 当然と言えばあまりにも当然のことを口走った後、ルカートはカーテンに手を伸ばす。
 何か聞こえたような気がしたのは、そのときだ。
 雨音にまぎれて、何か――聞き覚えのある声が届いた気がする。
「……まさかね」
 今は夜で、まして雨である。そのうえあれほど頻繁に会っていても、最初の一件で懲りたのか気を遣っているのかはともかく、ファルドはこの家を訪ねてくることはしない。
 だからあり得ない、と思った瞬間、もう一度自分を呼ぶような声を聞いて、ルカートは雨が入るのも構わずに窓を開け放った。
 ルカートの部屋は、ちょうど店の真上にある。ファルドは店側の入り口しか知らないはずだが、その入り口は屋根が邪魔で上からは見えない。
「ファルド君、そこにいるのかい!?」
 まだ少し疑ったまま、それでも雨音に負けないくらいの声を発すると、屋根の下から小さな影が走り出てきた。全身みすぼらしいまでに濡れたまま、こちらを見上げたのは、間違いなくファルドである。
「どうしたっていうんだ……」
 本当に少年の姿を認めた瞬間の衝撃は、空耳のような声を聞いたときよりも、ずっと大きい。
 とにかく、ルカートはそれまでの優雅な時間など吹き飛ばす勢いで窓を閉め、部屋を飛び出した。
「あ、ルカート様!」
 こちらに向かっていたらしい古参の使用人とぶつかりそうになったのは、無駄に長い廊下を階段に向かって全力疾走する途中だった。
「実は下から妙な物音と声がっ。今お呼びしようかと……」
 恐れゆえに顔色を変えて訴える使用人に、驚きゆえに血相を変えたルカートは負けじとまくしたてる。
「毛布を用意してくれないか。すぐに下に持ってきて、いいね?」
「でも下は……」
「いいから、頼んだよ!」
 強引に言いつけると、ルカートはそのまま下へ向かった。
 店の戸棚から鍵を取り出し、内側からしっかり掛けている錠前を外す。分厚い鉄のドアを押し退け、さらに木のドアを開けると、ようやく外に通じることができるのだ。装飾品を扱う店としては当然の防犯対策だが、こういう急ぎの場合にかぎっては酷く手間がかかる。――もちろん、こんなことは度々あってはたまらないが。
「さあファルド君、こっちへ。早くお入り」
 立ち尽くすファルドを招き入れ、その後でようやく、ルカートはひとつ深呼吸する。
 ずぶ濡れという言葉の見本になるほど見事に濡れたファルドは、全身から水を滴らせながら、床に水溜りを拡大させている有様だ。
「……参ったね、僕も顔を洗った後みたいだ」
 やれやれと笑いながら、ルカートはシャツの袖で無造作に顔を拭う。その直後、対するファルドの反応にぎょっとして、上半身を仰け反らせたまま半歩後ずさった。
 こちらを見上げる大きな灰褐色の双眸に巨大な雫が盛りあがったかと思うと、ファルドは突如、うわあんと声を上げて泣き出してしまったのだ。
 これは――まったくもって予想外だったのは、言うまでもない。
「え……ええと……っ?」
 思わずもう半歩、合計一歩分後ずさった後で、ルカートはようやく理解する。
 何事かの理由でここを訪ねてきたものの、夜の雨の中、ファルドは相当に不安だったはずで、つまりこれは安心して気が緩んだ証拠なのだろう、と。
 ちょうど、先ほどの使用人がびくびくしながら毛布を運んで来たのを機会に、ルカートは平常心を取り戻した。
「とりあえず服を脱ごうか、ファルド君。そのままじゃあ家中が水溜りになってしまう。それとも、泣くのに忙しいなら、僕が脱がしてあげてもいいけど? ――下着まで全部」
 それには露骨に反応して、ファルドは泣きながらもきっぱりと、首を左右に振る。
「ああ、そう」
 笑いながら、ルカートは毛布を広げた。
「着替えは後で用意するから、とりあえずはこれで我慢してもらうよ」
 ファルドはしゃくりあげつつも、多少は落ち着きを取り戻したらしい。ルカートに頷いて、それから初めて言葉らしきものを発した。
「ラ、ティが……かえ……ない」
「え?」
「ラティが……ずっと……朝から、ずっと……帰ってこない」
 嗚咽に紛れつつ、ファルドはやっとそれだけ言う。
 それは、もっとも手短かで的確な説明だった。詳しいことはともかく、少なくともファルドがここを頼ってきた理由はそれか、とルカートは納得する。
「……そう。それで、雨で暗い中、ここまで一人で来たのかい? きみって僕が思っているよりも、ずっと勇敢だね」
 濡れた黒髪を額から掻きあげてやりながら、ルカートはにっこりと笑ってみせた。ラティフィーネが姿を消したという話が真実ならばそれは事件だが、ここでファルドの不安を煽るようなことを口走れば、話を聞くどころではなくなってしまう。
「さあ、ファルド君。ともかく早く濡れた服を脱がないと風邪をひくよ。後でたっぷり、僕を驚かせた理由を教えてもらうからね」
 ファルドは頷いて、ようやくシャツのボタンに指を掛けた。



 使用人に着替えと濡れた床の掃除を頼み、ルカートはファルドを連れて部屋に戻った。住み込みで働いて二十年以上になるこの使用人は、臆病なところを除けば、働き者でよく気がつく男である。
「ルカート様、もし旦那様や奥様にこのようなことが見つかったら……」
「そのときは、僕がどうとでも言い訳するさ。実は隠し子でした、なんていうのはどう?」
 腹違いの弟のほうが真実味があるかもしれないね、と皮肉交じりに笑ってから、ルカートは使用人の手から温かいスープとパンの乗った盆を取り上げた。
「少なくとも友人をもてなすことくらい、僕にだって許される権利だと思うけどね。後はもういいから、さがってお休み」
 まだなにやら言いたそうな男を追い出して、ルカートはテーブルに戻る。
「……ルカート、怒られちゃうの?」
「大丈夫、ファルド君の気にすることじゃあないさ。それよりも、夕食まだだったんだろう?」
「……だけど……」
 ルカートの古着を着たファルドは、不安そうに表情を曇らせたまま首を振る。しかし、胃袋のほうが素直に盛大な返事をしたために、ルカートはつい、声を上げて笑ってしまった。
 泣いてしまったことでただでさえ決まり悪い様子のファルドは、余計に縮こまって赤面している。
「大丈夫さ。ラティフィーネはきみを置いていなくなったりしないよ」
「でも……じゃあ、どうしてラティは帰ってこないの? すぐ帰ってくるって言ったのに……僕、ずっと待ってたのに」
「ねえファルド君、きみがお腹を空かせて心配していたって状況は変わらないんだよ。とりあえず、食べるものは食べないとね。ラティフィーネは、きみがちゃんと食事しないと、いつもなんて言うんだっけ?」
「……残さず、全部食べなさいって」
「だったら、これくらい全部食べなくちゃ駄目だね」
 ルカートはそう言うと、自分用にいれ直した紅茶に口を付けた。
 ラティフィーネのことを心配していないわけではない。泣き止んだファルドから聞いた話によれば、どこかの議員の家に呼ばれて行ったわけで、普通に考えるならばまだその家に居る――帰るに帰れない状況に置かれている可能性が高い、と判断したのだ。
 少なくともルカートが知っているだけでも、占師ラティフィーネの噂は表町でも囁かれている。裏町の小娘に指図されるのは御免だと言う者もいるが、それと同じくらいには興味関心を示している者もいるのだった。そして、そういった占師傾倒者は、とかく能力のある占師を囲いたがるし、そのくせそういった者に頼っているという事実を隠したがるものである。
 ファルドが恐れている可能性――ラティフィーネがファルドを見捨てることはあり得ないと、ルカートは確信していた。だとすれば、やはりラティフィーネは、まだこの都のどこかにいるということになる。
 そこまで整理して、ルカートはスープを口に運び始めたファルドのほうを窺った。
「ねえファルド君、その議員の名前、本当にわからないのかい?」
「……ラティが、なんとかっていう議員、としか言わなかったから」
「じゃあね、馬車に特徴はなかったかい? 模様とかさ」
「茶色い馬車だったよ。模様は……わからない」
「茶色い馬車……ねえ」
 ルカートは苦笑した。それならば、表町になら珍しくないほどに溢れている。
「でも……ラティはお姫様みたいだったよ」
「お姫様?」
「だってね、馬車に乗ったラティの顔が小さい窓から見えて、とても綺麗だったんだ」
「まあ、彼女はもともとお姫様――いや、お姫様みたいに美人だしね」
 言いかけた言葉を飲み込んで、ルカートは適当に取り繕う。
 実を言うと、ラティフィーネの出生について偶然にも調べ当ててしまった事柄を、ルカートは密かに胸にしまっていた。広場に興行の芝居小屋が出ていた頃――雨期に入るよりも前からだ。
 用意された枠組を捨てた彼女の価値観の中には、貴族も奴隷も存在しない。ただ、占師ラティフィーネとして生きている彼女なら、今更無関係だと一蹴してしまうだろうと思われた。
 ルカートのほうでも、ラティフィーネの生まれが貴族であれ貧困層であれ、出生自体には単なる興味以上の関心はないので、結局、本人に問い質すようなことはしないままでいるのだ。
「ねえルカート……ラティは、悪い人に捕まったりしてないかな? 捕まって、怖いところに閉じ込められたりしてないかな?」
「悪い魔法使いに、かい?」
 軽く笑って、ルカートはファルドの顔を覗き込んだ。
「あれは……物語のお話でしょう? でも、ラティは馬車に乗って行っちゃったんだ。煙に包まれて、そのまま消えてしまったらどうしようって……僕……」
「じゃあファルド君、きみがお姫様を助けなくちゃね。だってきみ、あのお話の中の若者になりたいって、そう言っていなかったかい?」
「僕がラティを助けるの?」
「そうさ。もちろん、僕も協力するけれど」
 にっこりと笑って、ルカートは悠然と紅茶を啜る。
「……でも、じゃあ……ルカートは何になるの?」
「僕? 僕は……そうだねえ……若者と一緒に旅をする竜、かな? きっと頼もしい相棒になれると思うけれど」
「じゃあ、僕はルカートの背中に乗って戦わなくちゃならないの?」
 真顔のこの質問には、危うく紅茶を吹き出しかけたルカートだった。
 このやり取りで、ファルドの緊張は解けたらしい。食事を平らげた後、ルカートが少し目を離した隙に、ファルドはいつの間にか絨毯の上で眠りについてしまった。
 身体に合わない大きなシャツに包まったまま、まるで仔犬のように丸くなって眠っている。
「まったく……今夜の僕ときたら、妻に逃げられて子育てに追われている夫の気分だね」
 起こさない程度にぼやきながら、それでもルカートは穏やかに微笑む。
「……誰もがきみみたいだといいのにね。そうしたら……幸福の都なんて、きっと誰もが手の届くものになるのに」
 現実にはそうではないから、戦争が起きたり、泥棒や奴隷商が暗躍したりする。ウルカのような女性や、売り買いされる子供が存在するのだ。
 黒い砂利に混ざった宝石のように、ルカートには、ファルドの存在が希望の光のように思えてならない。
 以前、エルミナに酷くぶたれたときでさえ涙を堪えていたファルドが、ラティフィーネがいないと言って、声を上げて泣く。その意味を、捕らわれのお姫様は気づいているだろうか――と、ルカートは苦笑した。
「きみって幸せ者だよ……ラティフィーネ」
 ふっくらとした頬を突付いてやりたい衝動を抑えつつ、ルカートは眠りに落ちた勇敢な若者候補を抱き上げる。
 さしずめ、自称頼もしい竜の最初の仕事は、勇者を起こさないようにベッドに運ぶことだった。


* * * * *


 ひと言で表現するなら、これは最悪なまでに趣味の悪い部屋だった。
 広さは一人部屋にしては十分なほどだが、真っ赤な絨毯には金色の薔薇模様が施され、濃い灰色の壁には、無駄に大きな鏡が掛けられている。窓はみっつあったが、それは部屋の片側にだけ、視線よりも少し高い位置に等間隔に並んでいるものだ。明りは射し込むが、景色は見えない。そして家具は、天蓋つきのベッドと、椅子がひとつ。
 どれもこれも、品としては悪くないくせに安っぽいまでに豪奢で、とてもまともな感性の持ち主が造ったとは思えないこの部屋が、ラティフィーネに与えられた空間なのだった。
「……最低な夜明けだわ」
 呪詛さえ込めた恨めしい声で、ラティフィーネは窓を見上げる。
 窓の外は白く明け、頼りない光が部屋に満ちている。雨音は遠くに聞こえるほど小さいがそれ以外に音はなく、時間もわからない。
 二日続けてほとんど眠れない夜を過ごしたラティフィーネは、ともかく不機嫌の極みにあった。気持ちは少しも落ち着かず、苛々は募る。
 なにより、気がかりはファルドのことだった。丸一日顔を合わせないなどということは、出会ってから初めてのことである。心配しているだろうか、泣いていないだろうか、それとも案外けろりとしているのだろうか、と頭の中では様々な想像が忙しなく駆け巡る。
 こういうときに思い知らされるのは、自分がいかに孤独に弱いかということだ。
 寂しさと孤独には、決定的な違いがある。寂しさの影には希望があるが、孤独の後ろにはどうかすれば絶望が待ち受けていたりするものなのだ。
 ラティフィーネは自分の勝手で家を出て、ファルドと出逢い、二人で生きてきた。――二人だったから生きてこられたのだと、口には出さないが認めている。もしも、ファルドがあんなに素直で優しい子でなかったら、四年も旅を続けることなど無理だったかもしれない。
「ちゃんと……食事しているかしら」
 窓を見上げてそんなことを呟くラティフィーネの口調は、まるで母親のそれに近い。けれど、そんな口振りを繕ってみたところで、本当はどちらが相手に依存しているかというと、自分のほうだと思っているラティフィーネである。
「……ルカートが気づいてくれればいいけど」
 表面上では軽薄極まりない男でも、一人でいるファルドに気づくかファルドが彼を頼るようなことがあれば、まず悪いようにはしないはずだ。ファルドの面倒は見てくれるだろうし、もしかしたらこの場所を探し当ててくれるかもしれない。――と、そこまで思ったところで、ラティフィーネは溜息をついた。
 他人に期待していることに気づいたからだ。気弱になってしまっている証拠だ。
 長い赤毛を肩越しに払い退けて、ラティフィーネは椅子から立ち上がる。
 部屋のドアを叩く音がしたのは、ちょうどそのときだった。
「ラティフィーネ様、ご主人様がお呼びです」
 まるで言葉を喋るオウムのような声である。一度聞いたら忘れられないその声が、この屋敷の女中頭のものであることを、ラティフィーネは瞬時に判断した。
「新しいお召し物をお持ちしましたので、お着替えください」
 物言いだけは丁寧だが、この老婆はかなり強引なのだった。勝手にドアを開けて入室すると、連れていた大柄な女二人に合図して、いきなりラティフィーネの服を脱がしにかかる。
「ちょっと……!」
 抵抗を試みるものの、これはまるで昨夜の再現だった。なぜなら、今ラティフィーネがこの部屋の中にいるのも彼女等に強引に連行されたからで、そこで昨夜は無理やり夜着に着替えさせられたのだ。おまけに大事な商売道具まで取り上げられてしまったのだから、最悪である。
 身包み剥がされた後、ラティフィーネが頭から被せられたのは、紅いドレスだった。生地にはより深い紅の刺繍糸で細かな模様が施され、袖口とぴったりとした襟元には、白いレースがふんだんにあしらわれている。
 これも部屋と同様、仕立ては悪くないが趣味が悪い。いや、一般的には見事なドレスなのだが、ラティフィーネに言わせると、動き難くて窮屈で、ただ人形のように座っているための高慢な衣装ということになる。
「……いったい、どういうつもりなの?」
 身体を締め付けられる感覚には早くも閉口しつつ、不機嫌極まりない態度で、ラティフィーネは老婆を睨む。
「そんなに慌てなくても、お食事の用意は整ってございます」
 それは、まったく答えになっていない。耳が遠いのかわざとなのか、とにかくこの老婆が返事をするときは、万事この調子なのだった。
 ラティフィーネは仕方なく、質問は諦めて口を噤んだ。
「さあさ、こちらへ」
 促されるがまま、歩き難い長いドレスの裾を持ち上げつつ、部屋を出る。
 螺旋階段を二階分上がり、広い廊下を抜けて食堂に着く。両開きの扉は白く、取っ手は金である。まるで何処かの貴族の家を模したかのように、一介の議員の家にしては贅を凝らした造りだ。
 食堂には、十人掛けのテーブルがある。銀の燭台と生花で飾られたそのテーブルには食器が並べられ、老婆の言う通り食事の準備は整っているようだった。
「目覚めはいかがなものだったかね?」
 ゆったりとした長衣を身に着けた恰幅のいい男が、鼻の下の髭を撫でながら口を開く。
 ラティフィーネは眉を跳ね上げて、そのほうを睨みつけた。
「あんな趣味の悪い部屋で、心地好い目覚めなんてあると思う?」
「これは手厳しいことを。あの部屋は、先代の我が家専属の占師が、精神統一するために必要だと言うから、わざわざあつらえたものだというのに」
 台詞ほどに落胆した様子もなく、ヨアールは贅肉に埋もれてしまいそうな目を細める。
 その占師がどれほどの腕前だったのかと口に出して疑う代わりに、ラティフィーネはこの食堂に揃った面々を、ざっと見回した。
 ヨアールの隣に座っているのは、朝から派手に着飾った彼の妻で、彼等の正面の席には、子供が二人腰掛けている。二人とも男の子で、年下の少年のほうは、ファルドと同じくらいの年齢に見えた。
 夫人と兄弟はラティフィーネを一切意識することなく、既に朝食を始めている。それは、占師という存在が、わざわざ目を合わすような位置づけではないということを、態度で以って示しているようなものだった。
 給仕役の使用人も終始無言で表情も乏しく、先ほどから一人機嫌よく声を発しているヨアールだけが、妙に異質に思える。いや、この男にしても、この酷い扱いを善意の如く振舞っているのだから、根底にあるものは傲慢でしかない。
「昨日から何も食べていないらしいじゃないか。まあ、ともかくそこへお掛け」
「……その前に訊いておきたいのだけれど」
 示された末席を一瞥しただけで、ラティフィーネは苛ついた問いを発した。
「わたしは、いつになったら帰してもらえるのかしら? ……そもそも、奥さんが病気を患っていると聞いたから、占師でも何かの慰みになればと思って来たのよ」
 わざわざ説明するのも馬鹿らしいが、言ってやらずにはいられない。ラティフィーネは一刻でも早く、帰りたかった。
 食べるのなら野菜スープとパンがあれば十分だし、眠るのならファルドと一緒の狭いベッドのほうがいい。
「金持ち特有の退屈病で楽しみを求めているのなら、わたしじゃなくて道化師を呼んだほうがいいと思うわ」
 これには、夫人の目つきが厳しくなる。言葉に出して無礼を詰ることはしなかったが、ラティフィーネには、こういう顔つきに見覚えがあった。――実の母の顔が蘇る。
 物心ついて初めて対面したとき、勇気を振り絞って「おかあさん」と呼んだラティフィーネに、彼女は露骨に眉をひそめて言ったものだ。「お母様とお呼びなさい」と。
 幼少の頃から伯爵家令嬢として相応しい教育を受けた姉達とは違い、ラティフィーネの言葉遣いや所作には知性と教養が欠けているのだ、とも漏らしていた。そうして、貴族社会に馴染めない末娘を、憐れみ、同情し、結局は歩み寄ろうとはしなかった。
 母や姉達と違い、ラティフィーネは、優雅な生活を約束された上に成り立つ知性や、よりよい家柄に嫁ぐための教養に、意味を見出せなかったのだ。それよりも、自分で生活していくための術を知りたかったし、地に足をつけて歩くための力が欲しかった。
「まあまあ、そんなに突っかかるものではないよ。きみには執事と同じだけの報酬と権利を与えようじゃないか。きみの腕を見込んで、わざわざ呼び寄せたのだからね。我が家の繁栄のために、しっかり働いてくれなくては困るよ」
 なんとも身勝手な言い様である。
 ラティフィーネは溜息を漏らしそうになったが、それでも毅然と背筋を伸ばして、ヨアールのほうに向き直った。
「そんな話は最初から聞いていないし、受け入れるつもりもないわ。誰かに囲われるなんて、わたしの性には合わないのよ。それに、こんな強引なやり方はお断りだわ」
「まったく……強情な娘だね。占師というものは変わり者が多いと聞くが、きみはまた特別に変わっているらしい」
 口髭を撫で回しながら、ヨアールは首を捻る。まったく理解できない、というような顔だ。
「ともかく、わたしの商売道具一式を返してちょうだい」
 ラティフィーネは当然のこととして、要求する。
 道具を持たない占師は、少しばかり勘が働くことがあるというだけで、無力なのだ。ドレスを着せられ言いなりに動かされるなど、ラティフィーネの自尊心を著しく傷つけるだけでなく、今後の生活に関わる大問題だ。
「わたしには、宿で待っている連れがいるわ。これ以上、ここに長居するわけにはいかないのよ」
「……では、こうしよう」
 勿体つけた口調で、ヨアールが吐息混じりに言う。
「宿に使いをやろう。そうして、その連れという者をここへ呼んであげようじゃあないか。仕方がないから、きみと一緒にここに置いてやってもいい。それでどうかね?」
 まるで用意していた台詞のようだ、とラティフィーネは思った。
 おそらくこの男は、妥協案としてそれを用意していたのだろう。そうやって理解を示す振りをしているに違いない。
「……あなた、本当は何が目的なの?」
「何、とはどういうことかね?」
 目を細めて、ヨアールは笑う。
「さあ、早くそこへお掛け。せっかくのスープが冷めてしまう」
 口振りこそ変わらないが、今度は、その目つきに有無を言わせぬものを漂わせている。
 ラティフィーネは渋々ながら、使用人の一人が引いた椅子に腰掛けた。
「伯爵家のお嬢様は、こんな食事ではご不満かもしれないがね」
「……嫌な人ね」
 嫌悪を隠しもせず、ラティフィーネは吐き捨てる。
 冷めたスープは味気なく、そして食堂内の空気はどこまでも重く、冷ややかに感じられて――どうしてだかラティフィーネは、四年前までの食卓を思い出していた。


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