遥かなる幸福の都
<第九章>
 ヨアールのラティフィーネに対する態度は、表面上では常に気遣う素振りを見せつつ、本質的には実に見下したものだった。
 ドレスだけではなく、靴や髪飾り、絹の靴下まで用意して、ラティフィーネにそれを身に着けることを強要したのだ。そして食事のとき以外は、外から鍵を掛けた悪趣味な部屋に押し込めたのだった。
 もちろん、ラティフィーネは最初からおとなしくしていたわけではない。すべてにおいて抵抗を試みたものの、今に至るまで徒労に終わってしまっているのだ。
 監視役の老婆は抜け目なく、定期的にラティフィーネの在室を確認するし、ヨアールからの趣味の悪い贈り物を無理やり身に着けさせて去っていくのだった。
 窓の下に椅子を置いて踏み台にし、なんとか外に出られないかという試みも、如何せん重いドレスが邪魔だった。自分の足元さえ見えないばかりか、両手を高く上げるのも難しい窮屈な衣服は、それだけで全身を縛る枷のようなもので、とても身軽というわけにはいかない。靴や髪飾りはともかく、ドレスは脱ごうにも、どうしたってうまく背中には手が届かず、足掻くほどに疲れる。
 お人形のように綺麗――と昔、ラティフィーネは伯爵令嬢を絵に描いたような姉達を見て思ったものだった。ただ、見るのと着るのとは大違いで、自分で脱ぎ着することもままならず、手足の爪の手入れから髪を梳かすことまで、すべてにおいて誰かの手を借りなくてはならないその生活には、数日も経たないうちに辟易してしまったという過去がある。
 ともかく、十歳で育ての親でもある占師を亡くすまで、ラティフィーネは実家と距離を置いて生活していたわけで、いくら伯爵家の面々が本当の家族なのだと頭で理解しても、相容れない価値観や感覚というものはどうしようもなかった。
 そして、そういう違和感を諦められるほど大人ではなかったし、素直に受け入れてしまえるほど単純でもなく、無闇に感情を爆発させてわめき散らせるほど幼くもなかった。
 つまり、ラティフィーネは絶対的に孤独だったのだ。
 ――その感覚は、今の状況と、なぜかよく似ている。
 自分独りでは何もできないのだと、それを思い知らされる瞬間が、ラティフィーネは大嫌いだった。それは、家を出た大きな理由でもある。
「……絶対に、ここから抜け出すわ」
 雨音をかすかに伝える頭上の窓を睨みながら、ラティフィーネは自分自身に宣言する。
 このまま言いなりになどなってやるものか。絶対にファルドの待つ宿に帰るのだと、その気持ちは一瞬たりとも揺るがない。
 ヨアールはこの都では要職にある議員であり、この都の統治を中央政権より委任されている貴族とも通じているようだった。ラティフィーネがカスタント家の者であることを知った経緯がどういうものかは知らないが、ともかくこの事実をなんらかの形で利用するつもりだろうという想像は容易い。
 今朝から数度目の、強引な来訪者を知らせる気配――扉の向こうから開錠する音が響いたのは、午後を少し回った頃のことだった。
「ご主人様が直々にお越しです」
 甲高くしゃがれた声を発して、老婆が仰々しく頭を下げる。
 ラティフィーネは椅子に腰掛けたまま、そのほうを見た。
「ご気分はいかがかな?」
 まるで上機嫌の口ぶりで、ヨアールは口髭を撫で回す。この男にとっては、嫌悪の目で見られることすら快感なのではないかと疑うほどだ。
「きみの住んでいた宿に使いをやって、荷物をこちらに引き取らせてもらったよ。残念なことに、きみが一緒に暮らしていたという助手の少年は見つからなかったがね」
 ヨアールは、嬉しそうに目を細める。
「見つからなかった……ですって?」
「なんとも薄情なことじゃあないかね。宿の者の話によれば、きみがここへ着たその日の夜に、その少年は出ていったそうだ。なんでも、止めても聞き入れなかったということだから、余程そこから逃げ出したかったのかもしれない」
「馬鹿なことを言わないで!」
 思わず、ラティフィーネは椅子から立ち上がった。
「あの子はわたしを待っているに違いないわ。ちゃんと探したんでしょうね? 下手な作り話でわたしを納得させようなんて思わないことだわ」
「これは心外なことを。こうして誠意をもって接して差し上げているというのに、それを理解してもらえないというのは寂しいことだね」
 ヨアールはさも可笑しそうに笑って、それから背中に隠し持っていた二冊の本を、ラティフィーネに差し出した。
「この本は、君のものではないのかね? それとも……その少年が残していったものかもしれないが。まあともかく、わたしが嘘を吐いているわけではなく、ちゃんと迎えをやったという証明として、受け取っておくれ」
 つくづく、嫌な男である。
「本もいいけど、いい加減にわたしの占い道具を返してくれない?」
「それは難しい注文だ。きみにはしっかりと働いてもらうつもりではいるがね、それは今ではないのだから」
「……わたしをどう働かせるつもりか知らないけど、もしカスタント家の名前を利用しようなんて考えているとしたら、意味のないことだわ」
「――おやおや。お嬢様は、わたくしめを信用して下さらないわけで。さすがに……上流階級にありがちな、自己主張の薄いお上品なだけのお嬢様とは違っていらっしゃる」
「褒め言葉としては、もっと別の言い方があるんじゃないかしら」
 ラティフィーネは眉をひそめながら、髪を払い上げた。
 ヨアールは目を細めただけで構いもせず、ゆったりとラティフィーネの周りを歩き回りながら、口髭を撫で回す。
「何を隠そう……このわたしは、あなたと同郷の出身でしてね。つまり――妻の家には婿入りという形で迎えられた、もともとは商人の家の出というわけで」
「――だから?」
「我々領民は、次こそお世継ぎがお生まれになればと願ったものだ。今度こそ、お世継ぎのお生まれを知らせる百発の銃声が響き渡るのではないかとね。しかし、今度も銃声は十発……つまり、女のお子様がお生まれになったというわけで。しかも、伯爵様はしばらくして、そのお子様は乳母が目を離した隙に行方知れずになってしまったと発表なさった」
 そういう話を聞かされれば、傷つくか動揺して大人しくなるとでも思っているのだろうか。
 ラティフィーネにとっては、表情を強張らせるほどの現実でも、嫌悪する事実でもない。不快だとすればこの男の暑苦しい顔であり、分厚い唇と口髭が動く様だった。
「ところが……一部の領民や近隣の貴族の方々の間では、まことしやかにこんな噂が流れていたのをご存知かな? その赤ん坊は、実は当時伯爵家に出入りしていた占師の老婆に預けられ、密かに葬られたのではないかと。伯爵家が男子を切望していたというのは、有名な話だったのだから」
「……残念ながら、占師は預かった赤ん坊を捨てるでもなく、自分の弟子として育て上げた。伯爵はそれを知っていい顔はしなかったでしょうね。かといって、彼が事実を知ったのは何年か経った後だったから、処分させるわけにもいかなかった。占師が死んだときもそう。仕方なく子供を引き取ることにしたっていうわけだわ。――お陰でわたしは、命拾いしたっていうわけだけど」
 ヨアールをちらりと一瞥し、ラティフィーネは不機嫌な態度を隠しもせずに椅子に腰を下ろす。
「お望みなら、もっと細かく話してあげてもいいわよ。あなたよりは、きっとわたしのほうが詳しいと思うから」
「これはまた……予想以上に逞しいお嬢さんだ」
 にんまりと笑みを浮かべ、ヨアールは殊更ゆっくりとした口調でラティフィーネに言い寄った。
「では、姉上方のうち、お二人もが流行り病でお亡くなりになったのもご存知かな?」
「……風の噂くらいにはね」
「ならば話も早いというもの。今のカスタント伯爵家の財力は、昔の繁栄など見る影もないというのが実状。しかしながら……古くから続いた由緒正しい家柄という、最後の頼みの綱がある。そういうときには息子よりもむしろ、娘に期待がかかるものだと相場が決まっているものだ。戦争で富を得た成り上がり貴族は、金で家柄のよさを買おうとするものだからね」
 話が読めたとばかり、ラティフィーネは鼻を鳴らした。
 ふざけるな、と言いたくもなる話である。つまり、ここに来て初めて、ラティフィーネが一応はカスタント家の娘であるという事実が生きてくるというわけだ。
「伯爵家の消えた末娘を探そうという気運が、伯爵家周辺で高まっているのもまた事実でしてね。わたくしめは、幸運にもその大事なお嬢様をこうして家にお迎えすることのできた幸せな男と言うわけで」
「――馬鹿じゃないの」
 紅いドレスの裾を片足で蹴り上げ、ラティフィーネは足を組む。ついでに腕も組んでから、ヨアールを睨んだ。
「伯爵家がわたしを本気で欲しがっているのなら、あんたなんかよりもずっと先に、わたしを見つけているわよ。謝礼か何かをあてにしているんでしょうけど、そんなものは期待するだけ無駄だわ。くだらない噂に乗せられて、身を滅ぼしてから運を嘆くのがオチよ」
 言い放つラティフィーネに、ヨアールは含み笑いで応えた。後方に控えている女中頭の老婆にいたっては、喉の奥を引き攣らせるような声をたてて笑い出す始末だ。
「お嬢さんの知らないところで、ちゃんと世の中は回っているんだよ。巷で人気の占師さんでも、それを理解できるほど大人ではないかもしれないがね」
 それは、占師としてのラティフィーネを頭から侮辱するものだった。それは、カスタント伯爵家の娘として悪し様に言われるよりも、ずっと許せないことでもある。
 腹立たしさのあまり口をきけないラティフィーネの膝の上に本を残し、ヨアールは身体を揺らしながら部屋を出て行った。それに老婆が続き、しばらく後で、部屋の鍵を閉める音が響く。
 ラティフィーネは、苛々と立ち上がった。
 部屋の中を意味もなく歩き回り、ふと、視野にもう一人の自分の姿が映り込むことに気づく。
 灰色の壁に掛けられた、無駄に大きな鏡だった。
 鏡の中のラティフィーネは、慣れないドレスを身にまとい、立っていた。白いレースに飾られた襟元の上に乗った顔は、まるで他人のもののようで、唯一自分でも気に入っている薄蒼色の瞳が、覇気もなく見つめ返しているばかりだ。
「情けない顔ね……ラティフィーネ」
 自嘲するように呟く。
 腕に抱えた二冊の本に視線を落とすと、嬉しそうに本の内容を語って聞かせようとするファルドの笑顔が脳裏に浮かんでくる。
 どういうわけか、今ならばルカートが突然目の前に現れて軽口を叩いたとしても、歓迎できるような気がした。
 両手で本を抱き、ラティフィーネは天井を仰ぐ。
 情けなくて――泣きたくなった。


* * * * *


 過去の恋の真似事を例に挙げても、女性から呼び出される経験は豊富だが、自分から誰かを呼び出す経験には乏しいルカートである。まして、恋にかぎらずとも、何事に対しても強い執着を抱かないできた彼にとって、必要に迫られて誰かに頼るということ自体が極めて珍しいことだった。
 しかも、そんな彼が初めて呼び出した相手は、エルミナ――元婚約者なのだ。
 身勝手故に一方的に婚約を解消したという事実があるうえに、最後に会ったときにも決して優しくはしなかった。
 さらに付け加えるなら、この雨だ。
 自分を傷つけた相手に呼び出されてわざわざ雨の中出向くなど、彼女には似つかわしくない行為だとすら、ルカートは他人事のように認めていた。
 それでも、待つより他はない。
 表町の大通りに面した、画廊である。壁中に飾られた肖像画や風景画には莫大な値がつけられていて、そもそも趣味でやっているだけという店主には商売をする気がない。それでいて、画廊の中にはテーブルやソファが用意されており、有閑婦人達の集いの場として定着している場所のひとつでもあった。
 まるで片想いの相手を待ち侘びるように――とは、画廊の主人の揶揄だが、ともかくルカートはらしくもなく落ち着かない気持ちを抱えて、ひたすらドアのほうを見ていた。人影らしきものがドアの小窓に映る度、壁に凭れた背中を浮かせ、落胆と安堵が混ざったような吐息を漏らす。
 三度目には、ルカートはついに苦笑を禁じえない気分に陥った。
「……僕って、こういう男じゃなかったはずなんだけど」
 これまで自分が待ちぼうけさせた恋の遊び相手も、もしかしたらこんな心境だったのだろうか、と。少々焦り始める一方で、そんなことを頭の端で思う。
 ――どれくらいの間、そんな自分自身への戸惑いの中にいただろうか。
 やがてドアが開き、軽やかな足取りでこちらに近づいてきたのは、紛れもないエルミナだった。
「お久しぶりね、ルカート」
 雨避けの上着をするりと脱ぎながら、彼女はにこりと笑った。蜂蜜色の巻き毛も、大きな青い瞳も、以前と少しも変わらない。
「呼び出したりして悪かったね。正直、来てくれないのかと心配していたところなんだ」
「あら。わたしはそんなに薄情じゃなくてよ」
 可愛らしく肩を竦めて、エルミナは笑った。そして、ルカートが勧めたソファに腰を下ろし、あなたも掛けたらいかが、とばかり自分の隣を指し示す。
「でも……あなたがわたしを頼ることがあるなんて、思わなかったわ。手紙を受け取って、本当に驚いたもの」
「僕だって驚いているさ。今だって、自分がこんな男だったかと疑問に思っている最中だよ」
 本音と冗談を混ぜて、ルカートは応じる。
「わたし、あなたのそういうところも好きだったわ」
 エルミナは満足そうに口元を綻ばせ、まるで他愛のない冗談を口にするような、悪戯っぽい目つきをした。
「わからない? ――誰にでも優しくて、そのうえ誰にでも冷たいところよ」
「……ああ」
 曖昧に間の抜けた相槌だけを返して、ルカートは苦笑する。
 短い間に、エルミナは少し大人びたようだと思った。彼女の容姿は以前と変わらずに可愛らしいが、その瞳には女性特有の柔らかさも同居している。少なくとも、以前のエルミナならば、こんなときは媚びた目をしていたところだ。
「それよりも、わたしにお父様の交友録を調べさせて、どうするつもりなの?」
「ちょっと……困ったことになってしまってね」
 前置きして、ルカートは事の次第を説明した。
「――つまり、あの女占師を連れ戻したいがために、あなたがあの奴隷の子に協力するっていうことかしら?」
 話の内容がラティフィーネに関することだとわかった途端、エルミナは興味が失せたとばかり巻き毛を指先で弄び始めたが、聞いてはいたらしい。
「きみ流に解釈すれば、そういうことになるだろうね」
「それであなたは……わたしに頼めば主な議員の名前とちょっとした情報くらいは楽に手に入るだなんて思っているの? ねえルカート、わたし、あなたはもっと自尊心の高い人だと思っていたわ。自分から縁を切った相手に頼みごとをするなんて、ちっともあなたらしくないもの」
 嘲笑するかのように、エルミナはふっくらとした唇を歪ませる。
「なんと言われても、僕には言い返す言葉はないよ」
「あなたは、前とは少し変わったんだわ」
「そうかな?」
「それとも、あの占師のこと、本気になったのかしら?」
 さらりと問い掛けながら、エルミナは白い封筒を、ルカートの鼻先でくるくると見せびらかす。
 ルカートは、降参とばかりに肩を竦めて見せた。
「ねえ、わたしのことを本当に好きだったことがある? 短い間でも、本気だったと思ったことがある?」
「……あるさ。僕は、きみと結婚することを当たり前に受け止めていたし、きみをちゃんと奥さんとして幸せにするべきだと思っていたよ」
 それは、正確には愛だの恋だのという感情とは一線を画したものであったかもしれない。それでも、ルカートが口にしたことはお世辞でもなければ、エルミナの手にある情報欲しさのことでもなかった。
 ならいいわ、とエルミナは笑う。そうして彼女はソファから腰を上げ、一度ルカートの目の前を横切ってから振り向いた。
「わたし、別の人と婚約することにしたの。あなたより背が低くてあなたよりは不細工で、だけど、いい人だと思うわ。正式発表はもう少し先だけれど……ねえルカート、あなたはわたしを祝福してくれる?」
「――もちろん。きみの幸せを、心から願っているよ」
 ルカートは、知らずに微笑んでいた。
 エルミナが驚いたように瞠目し、それから一瞬だけ泣き出す直前の顔をしたが、彼女の自尊心はそれ以上を許さなかったらしい。緩く頭を振ると、乱れてもいない巻き毛を撫でつけて、それから真っ直ぐにルカートを見た。
「これは、ひと月前からのお父様の交友録を内緒で書き写したものよ。都で要職にある議員の名前は、ほとんど出ているわ。きっと、あなたのお父様と親しい方もいらっしゃるでしょうけど。昼食会や晩餐会で話題になった話の要約も記してあるから、役に立つかもしれないわ」
「ありがとう、エルミナ」
 ルカートは立ち上がって礼を言い、エルミナから封筒を受け取った。
「これは個人的な感想だけど……お父様の最近の口振りでは、出納長とこの都の領主との関係があまりよくないようだわ。それから、議長と司教様の不仲は有名なことだけれど」
「ああ、それとなく噂は聞いているよ」
「そう? ――そうね、あなたはそういう噂を女性のお客様から聞き出すのが上手だもの」
「心外だな。僕はこれでも、真面目に商売するときにはするんだよ。世間話のお相手をするのも営業のうちさ」
 嘯くルカートにエルミナは笑い、それから小声で打ち明けた。
「出納長夫人が派手好きなのは有名だけれど、一昨日の晩餐会で議長夫人が自慢していた首飾りを、とても悔しそうに見ていたわ。きっと近いうち、あなたのお店にご指名があるとは思うけれど……彼女はあなたのことを気に入っているようだから、あなたからご機嫌伺いをするといいわ。噂話には詳しい奥様ですもの。あの占師の居場所を見つける手がかりくらいなら、知っているかもしれなくてよ」
「……エルミナ」
「わたしも議員の娘ですもの。見ていないようで見ているのよ」
 以前の彼女らしからぬ勧めに困惑するルカートに、エルミナはそう言って弱く笑った。
 彼女は少し、無理をしているのかもしれない。
 ルカートはそれに気づいたが、優しい言葉で慰めることはむしろ傷つけるだけだということにも気づいて、口を噤む。
「さよなら、ルカート」
 それはいつか、ルカート自身がエルミナに一方的に告げた台詞だった。
 慣れていたはずの甘い香水の残り香が、やけに印象的に鼻先を掠めていく。今更のように、元婚約者のいじらしさを見た気がした。
「ごめんよ……エルミナ」
 謝罪など、最も卑怯な行為なのかもしれない――とは、口にした後で悟る。
 幸いなことに、ルカートの漏らした呟きは、去り行くエルミナには届かなかったようだ。
 ルカートは目を閉じ、そして一度だけ深呼吸をした。



 画廊を出たルカートは、止まぬ雨を仰ぐ。
 頼んでいた貸し馬車屋は既に馬車を寄越していて、雇われ御者はルカートを見つけると姿勢正しく起立して、ドアを開けるために御者台から飛び降りた。
「裏町まで頼むよ」
 御者は心得た様子で、畏まりました、と応える。
 ルカートは素早く馬車に乗り込もうとし――しかし、こちらに駆け寄ってくる少年の姿を発見して、やれやれと吐息した。
「見つけた! ルカートっ」
「……ああもう、本当に。僕が迎えに行くまで宿にいるって約束したはずなのに」
 雨の中を走ってきたファルドは、先日の夜と同じく、見事に濡れ鼠である。思わずルカートは、脱力したまま額に手を当てる。
 しかし、呆れ顔のルカートにお構いなく全速力で駆け寄ってきたかと思うと、ファルドは早口に捲くし立てた。
「大変、大変なんだよ! 宿の荷物、全部なくなっちゃったんだ。僕の大事な本も、ラティの荷物も全部……っ」
「え?」
「あのね、知らない人が全部持って行っちゃったんだって」
 肩で呼吸しながら、ファルドは真剣そのもので訴える。
 ルカートは、ともかくファルドを先に馬車に押し込んで、それから自分も乗り込んだ。
「荷物がなくなったって、どういうことなんだい?」
「だからね……ええと、ルカートに送ってもらった後、僕が調理場に行ったら、おじさんがとても驚いた顔をして言ったんだ。もう、二度と戻らないかと思っていたって」
「――うん、それで?」
 慎重に、ルカートは続きを促す。
 ファルドは数秒の間、頭を整理するように黙り込んで、やっと続きを話し始めた。
「今日のお昼前に、ラティから頼まれたっていう人が来たんだ。それで、その人が宿の未払い分を払って、荷物も全部持って行っちゃったんだって。ラティは、偉い人の専属の占師になるから、心配いらないって。それで……あと、おじさんとおばさんは僕のことを心配してくれていたんだけど、僕もラティと一緒だって、その人は言ったんだ」
「……つまり、それで体よく一人の占師と少年の存在を煙に巻いたっていうことか。僕は好きじゃないなあ、そういうのは」
 いかにも、金に物を言わせる腐った議員のやりそうなことだと、ルカートは心の中だけで吐き捨てる。
 少なくともはっきりしたのは、ラティフィーネは確実にその『偉い人』とやらの屋敷にいるに違いないということだ――問題は、それを特定する手掛かりなのだが。
「ええとね……おじさんがこれを持って行きなさいって」
 勝手に考え込むルカートの目の前に差し出されたのは、綺麗に折り畳まれた上質な紙だった。全身ずぶ濡れなのにこの紙だけ濡れていないのは、ファルドが余程大事に胸に抱いていた証拠だ。
「僕、ラティのことを……本当はその人の言うことと違うって、おじさんとおばさんに話して、ルカートがラティを探してくれているっていうことも話したの。そうしたら、これが役に立つだろうって」
「……これは……なるほど」
 一見して、ルカートは思わず笑みを浮かべる。
 それは、裏町の宿にはそぐわない支払い証明書だったのだ。当然、支払い主の名前が書いてある。こういった証明書は通常、裕福な家や議員、貴族の間でやり取りされるものだ。裏を返せば、裏町の庶民に格の違いを見せつけるための格好の書状となる。
 裏町の宿屋の主人など、それで簡単に黙らせることができると高を括っていたのだろう。先ほど心の中で吐き捨てた台詞を肯定するような、いかにも傲慢なやり方だ。
「よくやったね、ファルド君。これがあれば、ラティフィーネの居場所はわかったも同然だよ」
「本当っ? 本当に、ラティの所に行けるの? ラティとまた会える?」
「もちろんさ。ただし、その前には準備が必要だけれどね」
 ルカートはにっこりと笑ってから、行き先を変更して家に戻るよう御者に出発を促した。
 鞭を打つ尖った音が響き、続いて馬車が動き始める。
「準備って? どれくらいかかるの? 僕もお手伝いすることがある?」
「そうだねえ……ファルド君には、ちょっとの間、僕の助手になってもらおうかな」
「……僕、ラティの助手で、悪者を退治する勇者で、でも……ルカートの助手にもなるんだね」
 そんなことを真剣に口にするファルドを横目に、ルカートは改めて支払い証明書に目を通す。
 金額は、宿泊料と食事代には多すぎるほどの額で、ここにも高慢の跡が見える。
 用紙の下のほうに記されているサインには、見覚えがあった。


* * * * *


 雨の日でも、夕暮れは訪れる。
 窓から降り注ぐ弱い光が徐々に灰色に転じ、部屋の中を薄暗闇へ引きずり込むのだ。
 雨音は、朝から変わらずに悪趣味な部屋を満たし、ラティフィーネは椅子に腰掛けているか部屋の中を歩き回るだけで、ここでの二日目の夜を迎えようとしていた。
 時間の経過と共に理不尽な扱いに対する苛立ちは増大しているが、現状への焦りは落ち着きに姿を変えている。
 機会があるはずなのだ。
 何事も、動き始めるにはきっかけがある。それを待たないことには、無闇に動いたところで事態は改善しないものだと。
「……お婆がそう言っていたわよね」
 育ての親であり師匠でもある彼女は、幼いラティフィーネが腹を立てたり思い通りにならない占い修行に落ち込んだりしたときには、そう言って宥めたものだった。
 ラティフィーネは、部屋の中央から窓を見上げていた。
 仄かな光は、しっとりと顔に降りてくる。
 そろそろ、あの女中頭がやって来てこの部屋にも灯りをともしていくだろう、と。そんなことを思いながら何気なく壁のほうを振り向いたとき、小さな光が目に飛び込んできた。
「……鏡……」
 それは、壁に掛けられた大きな鏡だった。ラティフィーネの金環の耳飾りが、僅かながらの光を反射して、そうして鏡に映り込んでいるのだ。
 その様は、見慣れたものとよく似ていた。水鏡に沈ませた水晶の欠片のように、耳飾りの仄かな輝きが、鏡全体に広がっていく。
 ラティフィーネは、目を閉じた。
 深く息を吸い込んで、吐き出す。そうして改めて瞼を開いたラティフィーネの目には、鏡に浮かぶ、ぼんやりとした映像が見えていた。
 水鏡のように、うまくはいかない。しかし、それは間違いなくファルドの姿だ。
 ――笑っている。
 一緒にいるのはルカートだった。絨毯の上に寝転がっているファルドに注意しながら、それでも半分は彼自身が楽しんでいるようにも見える。
「……わたしを除け者にして、楽しそうじゃないの」
 文句を言ってはみるものの、鏡の中の光景に目を奪われるラティフィーネは、僅かに笑みを浮かべていた。
 外に降る雨は、止まない。
 しかし、胸の中に渦巻く苛立ちの雨雲は、急速に消えつつあった。
 代わりに、強く願う。
 胸の中に輝いている、一番愛しい場所に――帰りたい、と。


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