遥かなる幸福の都
<第三章>
 ラティフィーネとファルドが新しい都に居着いて、二十日以上が過ぎていた。
 赤い髪の占師、ラティフィーネの噂は確実に広まっているようだった。彼女の占い料金は、非常に安い。真剣に占いに耳を傾ける者も少なくはないが、娯楽の少ない裏町の人々にとっては、それはささやかな楽しみという色合いのほうが濃いようである。
 ラティフィーネは相変わらず、客に対して愛敬を振りまくということをしない。その無愛想なところがかえって人気の秘密でもあるのだが、そんなことは彼女にとってどうでもいいことだ。
「……それで、今日はなんの用なのよ?」
 苛々と、ラティフィーネは髪を掻き上げる。
「だってラティフィーネ、きみは一度も僕のこと、占ってくれないじゃないか」
「わたしが占うのは客よ。あなたのは、ただの冷やかしでしょ? それとも嫌がらせ?」
「心外だな。わざわざこうしてきみに会いにやってきているというのに。こんな僕を邪険に扱うなんて、きみは随分と冷たい人だよ。まあ、そんなところもきみの魅力だけどね」
 ラティフィーネはこれ見よがしに溜息をついて、目の前の男を睨んだ。このルカートは最初の遭遇以来、度々姿を現すようになり、ここ数日はほとんど毎日のように顔を出すようになっているのだ。
「わたしは、顔のいい男の言う台詞は信用しないことにしているの」
「へえ? それって、少なくとも僕の顔は好みだっていう意味に聞こえるけど?」
「……口数の多い男は嫌いだわ」
 ラティフィーネはもう一度溜息をついて、ファルドを呼んだ。
「ここはいいから、この男、どこへでも捨ててきてちょうだい」
 するとファルドは心得た様子で、別段抵抗するでもないルカートの腕を掴み、店の外に連れ出していく。
 要は、あの男は単なる暇つぶしをしているだけなのだ、とラティフィーネは思っている。表町に暮らしながら、どういうわけかそこでの生活をあまり好いてはいないらしい。暇さえあれば先ほどのようにくだらないことを口走るか、ファルドにささやかな悪戯をしかけるために、ここへ顔を出す。
 少なくとも彼は、ラティフィーネやファルドに悪意をもって近づき、危害を加えようとしているわけではない。しかし、だからといってラティフィーネが彼を心から信用しているかというと、そうでもなかった。なぜなら、ルカートという青年はある意味でラティフィーネと同類であるからだ。
 つまり――基本的には、他人というものを信頼しない、という意味で。
 占いに依らずとも、一日に数十人もの客と顔を合わせる商売を何年も続けているラティフィーネは、齢十八にして、なんとなくわかるのだ。
 ルカートの心の中には、冷たい河が流れている。
 彼がラティフィーネに冗談を言うのは、それでもとりあえずラティフィーネが相手をしてやるからで、彼がファルドを可愛がるのは、ファルドがとても素直に好意を示すからだろう。
 ルカートのそれはまるで鏡と同じで、結局彼は、自分自身しか見ていない。相手の態度と同じ度合いでしかその相手に近寄ることをしないというのは、つまり、基本的には誰も信用していないのと同じだ。その証拠に、ルカートは知人ですらない他人――例えばこの食堂にやってくる別の客に対しては、愛想のいい笑みこそ浮かべても、鳶色の瞳の奥はいっそ冷ややかなくらいなのだから。
 だからといって、向けられる好意にさえ素直に応じることのできないラティフィーネは、自分がそれをとやかく言う資格などないことを承知しているのだが。
「あのう……」
 遠慮がちにかけられた声で、ラティフィーネは我に返る。
 ルカートの後に並んでいた客が、どうしたものかとこちらを覗き込んでいるところだった。
「考え事をしていたわ、ごめんなさい。どうぞ」
 単調に告げると、友人同士らしい少女二人組みは、そそくさと椅子に腰掛ける。
 こういう、いかにも娯楽気分の客の相手は、馬鹿馬鹿しい反面気が楽だ。けれどラティフィーネは、そんな態度は微塵も見せず、かといって笑顔で応対するわけでもなく、客に向き合った。



 食堂の外、人々の行き交う通りに面した場所に、ファルドは営業妨害の青年を連行した。ルカートは抗うこともなく、反省するでもなく、むしろ毎回のこの状況を楽しんでいるようでもある。
「ねえ、ルカート、あんまりラティを怒らせちゃ駄目だよ」
「彼女、あれで怒っているのかい? 普段からああだから、ちっともわからないね」
「占いをするには、感情的になるのはよくないんだ。それに、占いができないとお客さんにも迷惑だし」
「きみっていい子だねぇ、ファルド君」
 真顔で言うファルドの言葉を聞いているのかいないのか、ルカートはにっこり笑っている。
「もう! 僕、知らないよ。ラティが本当に怒っても、味方してあげないんだからね」
「なんだか傷つくなあ。きみは、僕のことが嫌いだって言いたいの?」
「ええっ? ……ええと、それは……違うと思うんだけど」
 ルカートが急に神妙な顔になるものだから、ファルドは慌てて首を振る。万事、この調子なのだった。まったく読めないルカートの言動に、ファルドはいつも困惑したり驚いたりを、繰り返す。
 もともと単純な性格をしているうえに、遊ばれていると気づくほど、ファルドはこういう人種に免疫がなかったという事実もある。
「今日はね、お土産があるんだよ」
 あくまで自分を崩さないルカートは、まったくお構いなく、紙包みを取り出して広げた。
 砂糖をふりかけた美味しそうな焼き菓子が、ファルドの視覚と嗅覚を瞬時に刺激する。
「裁縫とお菓子作りが趣味なんて、僕って変わっているよね」
「ルカートが作ったの? すごいなぁ、なんでも自分でできるんだね」
「だってほら、僕って暇人だから」
 それって自慢になるのだろうか、とファルドはこっそり思ったが、口の中に放り込まれた甘さに、たちまち幸せな気分になってしまう。
「ねえ、ひとつ教えてくれないかな?」
「なに?」
 今度は自分から焼菓子に手を伸ばしながら、ファルドは訊き返す。
「きみとラティフィーネは、どうして旅をしているのさ? 四年も旅をしているっていうけど、どこかにあてがあるのかい?」
「ラティは、幸福の都を探しているんだ」
 深く考えず、ファルドは答えた。
「僕はよくわからないんだけど、ラティが行きたいのなら、きっといいところなんだと思うし。それに、旅を続けるのは、嫌いじゃないもの」
「……幸福の都、ねえ」
「ルカートは、それがどこにあるか知ってる?」
「知らない」
 期待を込めたファルドの質問は、間髪入れずに跳ね返される。
「そんなもの、本当にあるのだったら、僕が真っ先に行っているよ」
「……でも、変だよねぇ。この都も、そう呼ばれているんでしょ? それなのに、誰も知らないって言うんだ」
 ファルドは、本当に不思議に思っている。これまでいろいろな場所を旅して――そう、四年も旅をしていて、誰もそれを知っているという人がいないというのはどういうことなのだろう、と。
 誰もその場所を知らないのに、名前だけは知っているのだ。名前だけは、いたるところに存在する。
「他にも、幸福の都って呼ばれていた場所はあったんだ。幸福のナントカっていう場所は、とても沢山あるんだよ。でも、本当の名前は別にあって、どこも本物じゃないんだ」
「まあ……そんなものかもしれないね」
「どうして? 本当じゃないのに、どうしてみんな、そう呼ぶの?」
 首を捻って尋ねると、ルカートは腕組みをしたまま、まるで空を睨むような目つきをした。
「それは、今が幸せだなんて誰も信じちゃいないからさ」
「え?」
「名前でもつければ、それが手元に降りてくると信じているのだったら、笑っちゃうよね。お手軽な名前で、自分たちの憐れさを隠そうとしているのかもしれないよ。……まあ、どっちにしても僕の知ったことじゃあないけど」
 空を仰いだまま、ルカートは言う。
 同じように空を見つめても、ファルドにはゆっくりと流れる雲以外、何も見えない。
 ガラガラと音を立てて、荷車が二人の目の前を走り去っていく。
「僕は、ラティのこと大好きだし、ルカートも遊びに来てくれるし、それって幸せなんだと思うけどなあ」
 ファルドが思っているままを口に出すと、ルカートは上向きの視線を下ろして、小さく笑った。
「きみって本当にいい子だね」
 声をたてずに笑いながら、ルカートはよしよしとファルドの頭を撫でる。
「ルカートは、今が幸せだとは思っていないの?」
「さあ、どうだろうね」
「楽しいこと、ないの?」
「あるよ。少なくとも最近は、きみやラティフィーネが遊んでくれるから、ずっと楽しくなった」
「楽しいことが沢山あると、それは幸せとは違うの?」
「幸せだと楽しいだろうけど、楽しいから幸せとはかぎらないんだよね、僕の場合は」
「……う……ん、よくわからない」
 ルカートはにっこり笑うが、この青年の発言の意味が、ときどきファルドにはわからなくなる。それが、年齢の差によるものなのか、それとももっと根本的な違いによるものなのか、どうにも判断できなかったが。
「ねえファルド君、きみはどうしてラティフィーネと旅をしようと思ったんだい?」
「それは……ラティが、ついていらっしゃいって言ったから」
「きみは、それを嫌だと思わなかった? 少しも?」
「……うん、思わなかったよ。だって僕、嬉しかったんだ」
 そのときのことを、ファルドはよく覚えている。
「ラティは、綺麗な石が沢山ついた……ルカートの家にあるみたいな首飾りと、僕を交換したんだ。それから、僕の手を引いて宿屋に連れて行ってくれたよ。僕はそこで身体を洗って、新しい服を着て、髪を切ってもらって……それから美味しい料理をお腹いっぱい食べたんだ。それからは、ずっとラティと一緒だよ。僕、嫌だと思ったことは一度もないもの」
「彼女、最初からずっと、あんなに無愛想だったの?」
「あんまり笑わないのは確かだけど……でも、ラティは怖くなんかないでしょ? 優しいんだよ、とっても」
 寝相は悪いけどね、と笑って、ファルドはルカートを見上げた。
「ルカートもラティを大好きになるよ、きっと」
「僕?」
 思わずといった様子で訊き返したルカートは、その後でにこりとした。
「僕はもう、彼女のことを好きだよ。きみが彼女を想う気持ちには敵わないだろうけど、少なくとも、きみが僕を気に入ってくれているくらいにはね」
 ルカートは、ときどきとてもわかり難い言い方をする。
 ファルドはルカートのことをもちろん、嫌いではないのだから、それはつまり、ルカートはラティフィーネのことを嫌いではないということで、ということは、好きだということなのだろうか。
 眉間にしわを寄せて考え込むファルドの手に、焼き菓子入りの紙包みが渡される。
「僕はそろそろ帰るよ。僕は暇人のつもりだけど、一日中ここに居座るほど暇かと言うと、そうでもなかったりするんだ」
「……それって、忙しいっていうこと?」
「それなりにはね。今日は面倒なお茶会があってね、困ったことに抜けられないんだ」
 ルカートは相変わらずの笑顔のまま、そうそう、と付け加えた。
「その中に一個だけ、砂糖の代わりに塩をふりかけたのがあるから、食べるときは注意するんだよ。病気になることはないけど、あまりの不味さに悶絶するのは間違いないから」
「えっ?」
 ファルドは驚いて、まじまじと手の上を見つめる。五つばかり残っているその中に、そのひとつがあるというのだろうか。見た目には、ちっともわからない。
「ほら、僕のもうひとつの趣味は意地悪だからさ。幸運を祈るよ、ファルド君」
「え、ええっ?」
 明るく手を振って去っていくルカートには、悪意の欠片も見えない。むしろ心から単純に、ファルドの反応を楽しんでいるようだ。
「ええと……どうしよう?」
 取り残されたファルドは、誰に対するでもなく問い掛ける。当然、答える者はいない。
 あくまで遊ばれているということに気づかない、少年ファルドは、しばし途方に暮れるのだった。



 ルカートにとって、日々を過ごすことは怠惰の連続のようなものである。
 裕福な家庭に育てられ、幸いなことに容姿にも恵まれた。金と顔さえあれば、大抵のことには困らない。
 父は家庭そのものには無関心で、金を与えておけばいいと思っている。母はそんな父に頭が上がらず、一度として声を荒げたことがないような女性だった。姉が二人いるが、上の姉は同業者の息子と結婚して近所に暮らし、下の姉は母と常に行動を共にして家にいることが多い。それはつまり、商売熱心な父親の顔色を覗いつつ、よそよそしい母親や姉達と儀礼的な笑みを交わし、使用人達とは適度な距離を保っていればいいということを意味する。若い娘と恋愛の真似事をしたり、裏町を放浪したりするのも、暇つぶしにしかならないのだった。
 贅沢な悩みだ、とルカート自身思ってはいる。だからこそ、常に胸の奥にある苛立ちの種を、明るい笑顔で包み込むことを覚えた。
 それは――ちょうど、ファルドと同じ年の頃からだったかもしれない。
 簡単な悪戯にも気づかない少年が、今頃、存在しない塩味の菓子を見極めようと苦悩している姿を思い浮かべて、ルカートは口元をほころばせる。
 父が午後の茶会を開くと言うときは、それは家族会議を意味していた。これには、誰も逆らうことはできない。両親、二人の姉と義兄、ルカート、六人が同じ居間でひと時を過ごすのだ。
 贅を凝らした居間には、既に紅茶の香りが漂っている。
「やっぱり、ルカートがいれたお茶が一番美味しいわね」
「暇を持て余しているだけあって、どの使用人よりもこういうことが得意なのよ」
「お褒めにいただき、光栄ですよ」
 籐の椅子に腰掛けている姉二人に優雅に微笑んで、ルカートは窓際の壁に凭れながらカップに口付けた。
 影の薄い姉婿は部屋の中央に置かれたソファに身体を沈め、まるで恐ろしいものを見るような目をしながら、姉弟の会話を盗み聞いている。姉婿の正面には父が座り、その隣には夫の装飾品のような母が、しゃんと背筋を伸ばして腰掛けていた。彼女は滅多に、自分から口を開くことはしない。
 まるで人形のようだ――と、幼い頃のルカートが感じたそのままに。
「我侭も程々にしておかないと、今回ばかりは相手が悪い」
 前触れもなく、父が言う。それが誰に対するものか理解しているルカートは、動じる素振りも見せず、分別ある壮年期の男性を気取っている父に、ゆったりと応じた。
「エルミナとは、結婚してもうまくいかないとわかったんですよ」
「結婚など、してしまえば後はどうとでもなるものだ」
「……生憎、僕には甲斐性がないようで」
 肩を竦めて、ルカートは笑った。
「僕は彼女を妻として愛する覚悟がないんですよ。彼女に自分の子供を産んで欲しいとも思わない。かといって、他の女を孕ませるようなこともしたくありませんしね」
「馬鹿なことを」
 意図的に含ませた痛烈な厭味は、一笑されただけで終わる。
「そのお陰で、お前は我が家に引き取られ、何不自由なく育つことができたということを忘れたか?」
「もちろん感謝していますとも、お父さん」
 にっこりと笑みを浮かべ、ルカートは乾杯する動作を真似て、ティーカップを軽く持ち上げた。
 もしもファルドのような黒髪に生まれていたら、間違いなく引き取られることはなかっただろうことも知っている。自分を産み落とした女がどんな人物なのか、ルカートはほとんど知らない。ただ、子供の頃に一度だけ問うたときの父の返答を信じるなら、実の母親はこの都に流れ着いた売春婦で、身篭っている間の生活費と口封じの報酬を受け取ると、その後は姿をくらましたということだった。
 くだらないことだと、ルカートは考えている。
 話に聞けば、二人の姉の下には一人息子が誕生していたが、一歳を迎える前に流行り病であっけなく死んだらしい。悲しみの癒えぬ妻や娘達のために夫がしたことは、代替品を与えることだった。売春婦に産ませた子供が、たまたま男子だったから都合がよかっただけだろう――とは、穿った見方かもしれないが。少なくとも、自分の子供を孕んだ女を暗い夜道に放り出すほど卑劣な男ではなかった父に対しては、感謝すべきだろう。代替品が決して本物として受け入れられなかったことに気づくほどの繊細さは持ち合わせていなかった、という事実を差し引いたとしても。
「エルミナにはもっと別な男が相応しいし、僕にも別の女性が相応しい。それだけのことです。お父さんも、議員の娘と僕なんかを一緒にさせるのじゃなくて、どうせなら姉さんをどこかの貴族の息子と一緒にさせればいいんですよ。姉さんが完全な行き遅れになる前にね」
「まあ……っ」
 顔色を変えた下の姉がきつく睨みつけるその視線を、ルカートは薄い笑みでかわす。
「今の、小競り合いだらけでろくに政治の話もできない議員連中の輪に、進んで加わる必要がありますか? 連中は結局、金が必要なんだ。なんだかんだと偉そうにしていながら、結局は金のある者には逆らえない。……そういう世の中ですよ、今は。エルミナの父親が勢力を持っているとは言っても、だからといって、資金元のお父さんより強いとは思えませんが? 下手に議員と血縁関係なんて持つと、時世が変わったときに動き辛い。僕はそんなのはご免です。彼等とは付かず離れずの関係がいい、と教えてくださったのは、お父さんですよ」
 我ながらよく回る舌だ、とルカートは内心で苦笑する。こういう生意気なことを言うから、母や姉達には嫌煙され、父にはむしろ歓迎されるのだ。
「お前はなかなか野心家だな」
「僕はただ、面倒は嫌いなだけです。お父さんが、それでもエルミナと一緒になれとおっしゃるなら……僕だって、了承しないわけにはいかないんだ」
 心にもないことを口にして、ルカートは紅茶を飲み干す。そして、口髭を湛えた父が少々陰湿な笑みを浮かべるのを見た。この中年男にとっては、息子の薄っぺらな建前を見抜くことなど簡単だろう。そして、息子のこういう軽薄さの裏に潜む打算――つまり、ルカートが父を本気で怒らせることは賢明でないと思っている事実も見抜いているのだ。そしてそのうえで、息子の言動を愛玩動物のささやかな反抗くらいにしか思っていない父の心理を、ルカートもまた知っていた。
 馬鹿げたことだと思う。
 しかしルカートは、それでもこの家族に「飼われている」しか存在理由を持たない。
「ルカート、皆にもう一杯ずつ紅茶を」
「はい、お父さん」
 にこやかに応じて、ルカートは壁際から動いた。それは、ひとつの議題に結論が出たという合図でもある。エルミナとの件は、もう二度と家族の間で持ちあがることはないだろう。
 ルカートの給仕役は毎度のことで、だから彼の動きには、すっきりと無駄がない。
「お母さん、お菓子はいかがですか? もしよかったら、義兄さんも」
 慣れた物腰でティーポットを傾けるルカートに、母はにこりともせず、義兄は愛想笑いを浮かべて、テーブルの中央に置かれた絵模入りの白い皿に手を伸ばす。
 ルカートは、笑みを絶やすことはなかった。
 それは、苦痛なことではない。上手に世の中を渡るための、もっとも簡単で単純な、ひとつの手段でしかないのだから。
 しかし。
 純粋そうに目を輝かせるファルドの顔が、ふと脳裏を過ぎる。
 『ルカートは、それがどこにあるか知ってる?』
 ――知らないさ、幸福の都なんて。
 心の中で、ルカートは毒づく。
 そんなものは、この世の中に実在しない。だからこそ、それは永遠に虚像の中に存在し続けるものなのだ、と。



 ファルドは夕方になって、洗濯屋に顔を出した。宿からさらに路地をひとつ入ったその界隈には、染物屋や鍛冶屋、印刷所なども建ち並んでいる。そこに石鹸の香りが混ざって、なんとも表現し難い不思議な匂いが立ち込めているのだった。
 裏町の中でも、とくに貧しい人々が多く暮らす地区である。
 大きな籠を抱えたファルドは、数日に一度はそこを訪れている。宿屋から出る洗濯物と、それからついでにラティフィーネとファルドの二人分の着替えなどを、洗濯してもらうためだ。安い割に仕事が丁寧だと、宿の主人は言っている。ファルドはラティフィーネの身の回りの世話だけでなく、最近では宿屋の雑用も進んで引き受けるようになっていたのだった。
 こういう毎日は、楽しい。
 褒められるために仕事をしているわけではないが、誰かのために何かをするのは嬉しいし、ありがとうと言われると、もっと嬉しい。それで皆が優しい顔になるのなら、自然とファルドも嬉しくなるのだ。
 ただ、今はほんの少し機嫌が悪かった。
「ルカートってば、ルカートってば……っ」
 ラティフィーネに、もらった焼き菓子について事情を話し、またしても彼の悪戯にひっかかっただけだという事実に気づいたのが、ちょうど出掛ける前のことだったのだ。
「いつも意地悪ばっかりするんだから!」
 ラティフィーネに言わせると、簡単に騙されるあんたも馬鹿ね、ということになるのだから、ファルドとしては釈然としない。
 次こそは騙されないぞ、と決意する。ルカートを嫌いだ、とは思わないところが、ファルドのファルドたる所以である。
 複雑な匂いのする通りを歩き、大きな小屋のような建物の前で立ち止まる。
「こんにちは」
 その声に、奥から数人の女達が顔を出した。
 ファルドから見るとおばさんの域に達した女性ばかりが五、六人、常にこの小屋の中や庭先で働いているのだ。
「いらっしゃい」
 おばさん達の中でも最も大柄な一人が、ファルドから籠を取り上げた。
「今日はこれだけかい?」
「うん。明日中にお願いできる?」
「お任せあれ」
 彼女は笑って答えると、軽々と籠を担いで奥へ引っ込む。そして、そこからファルドを手招きした。
「ちょうど、休憩中だったんだよ。時間があるなら寄っておいで」
「うんっ」
 大きく頷いて、ファルドは中へ駆け込んだ。
 ここの女性達は、全員が全員、ファルドに好意的なのだった。実に開けっぴろげで、お互いの悪口を平気で言い合うような空気に最初は驚いたものだが、彼女達は口が悪いだけで悪気はない――ラティフィーネよりかなり迫力があって、ちょっと声が大きいだけ、ということがわかれば、馴染むのも早かった。
 彼女達は自分達のことを「あぶれ者」と呼び、それは世の中に馴染めない人達のことだとファルドは教わった。いろいろあるんだよ、としか彼女等は言わないし、彼女達もお互いの『いろいろ』については知らないらしい。
 ファルドにしてみても、どうしてこの都に来たのかと訊ねられれば、やはり事情があるのだし、それを事細かに話すことも、自分が壇上で売られていた奴隷だと説明することも難しいのだから、『いろいろ』について訊くのはよくないとわかっている。
「ウルカおばさん」
 ファルドは、真っ先に一人の女性に声をかける。
 その人は、ファルドと同じタークル人の容貌をしている。ファルドよりは髪の色が薄いものの、目の色ははっきりとした灰褐色である。痩せているが穏やかな顔立ちで、ファルドの勝手な想像では、お母さんくらいでもおかしくない年齢の人に見えた。
「嫌だよこの子は、ウルカに会いたくて来たのかい?」
「やっかみはおよしよ」
 丸太に板を乗せただけの粗末なテーブルを囲んで、数人が派手に笑う。伸び放題の髪を首の後ろでひと束ねにし、衣服の袖を捲り上げ、化粧っ気などまるでない女達だ。皆手荒れは酷く、石鹸臭かった。
「あんたはいつも元気がよくて、羨ましい」
 ファルドが横に座ると、ウルカは目を細める。彼女の顔色はいつもあまりよくない。だからファルドは、今日こそはとひとつの提案を口に出した。
「ねえおばさん、時間が空いたらラティの所に来てよ」
「あんたが手伝っているっていう、占師の所へかい?」
「ラティの占いは、とてもよく当たるんだ。おばさんが元気になる方法、ラティが占ってくれるよ。僕、あんまり難しいことはわからないけど、もしもおばさんに困ったことがあるなら、きっとラティの占いは役に立つと思うんだ」
 真顔で言うファルドに、ウルカは――いや、そこに居る全員が笑った。それは、ルカートがファルドの話をちっとも聞いていないときのような悪戯っぽい笑みとは違い、どこか曖昧とした優しい笑い方だった。
「あんたの言う、そのラティって占師は、ここいらでも評判だよ」
「失せ物が見つかったとか、どこかの娘と若者が無事に結婚話に漕ぎ着けたとか」
「その占師も、なかなか綺麗な子だそうじゃないか。ちょっと無愛想だって話だけどね」
 口々に言い合う女達は、笑いながらファルドの頭を撫で回す。
「じゃあ、おばさん達みんなで来ればいいんだ」
 ぼさぼさになってしまった黒髪を手で撫でつけながら、ファルドは得意になった。しかし彼女達は、先ほどと同じ曖昧な笑みを浮かべて首を振る。
「ねえファルド、あんたはとっても優しい子だよ」
 宥めるように、ウルカが言った。
「あんたのお陰で、あたしらはとっても楽しい。でもね、ここに居るのは、あぶれ者だもの。みんながあんたみたいに、あたしらを受け入れてくれるわけじゃあないんだよ」
「でも……っ、ラティは、おばさん達に意地悪なんか言わないよ!」
「ああ、そうだろうとも。ラティはきっと、あんたと同じくらい優しい子だろうね。この洗濯屋を贔屓にしてくれている宿のご主人や奥さんだって、あたしらを悪くは言わないだろうよ。けれど、そうじゃない人もいる。いや……本当は、そうじゃない人のほうが多いくらい」
「どうして? おばさん達、とってもいい人達ばっかりなのに」
「そりゃあ……いろいろね。ここのおばさん達はみんな、いろいろな問題があるのさ。結局、あたしらは、この界隈でしか生きていけないんだから」
 優しいけれど、とても悲しい言葉だった。
 ファルドにも、ウルカの言うことは少しだけわかる。表町でファルドが苛められたように、ここにいるおばさん達も、ここを出れば苛められるのかもしれない。
 それは、とても悲しいことだ。
 おばさん達の『いろいろ』の内容はわからないが、それでもやはり、ファルドは悲しかった。
「あんたの優しい気持ちだけ、受け取っておくよ」
 ウルカは笑い、ファルドの髪を撫でた。
「暗くなる前にお帰り」
「また遊びに来ておくれよね」
 見送られて、ファルドは小屋を出る。
 空は、燃えているように赤かった。
「……幸福の都」
 ぽつり、とファルドは呟く。
 この都も、一応はそんな風に呼ばれているはずだった。けれど、笑顔で見送ってくれるおばさん達はこの都をどう思っているのだろうか、と。
 ファルドは少し、混乱していた。


<―― BACK   NEXT ――>

本作品の扉 / 創作(オリジナル)
トップページ
inserted by FC2 system